「名人」と呼ばれた理由
そして地方の統治者としても活動し始めた頃、秀政を批判する大札(木の板に書面を貼って、地面につきたてたもの)が、何者かの手によって町中に立てられました。
そこには堀家の家臣たちが執り行う政治がうまくいっておらず、そのために町人や百姓たちの風紀が乱れている、といったように、数々の批判がなされていました。
それもすべて秀政の統治がよくないからだと、33ヶ条にもわたって見直すべき点が指摘されています。
これを読んだ堀家の家臣たちは、秀政に「こんな無礼なまねをした者を探し出し、処罰しましょう」と提案しました。
しかし秀政は、つらつらとこの札に書かれている批判を読み下すと、袴をはいて正装し、手を洗ってうがいをし、札を三度手に乗せて掲げ、大事に扱う様子を見せます。
そして「いったい誰がこのような諫言を私にしたのだろうか。これはきっと、天が与えてくれた機会に違いない。この札は我が家の宝であるから、立派な袋に入れて箱に納め、大事に保管しておこう」と述べました。
その上、言葉だけでなく、町奉行や代官を集めて施政の善悪をただし、家臣たちへの知行の割り振り方や、町人や百姓への扱いに至るまで、統治方針の全てを見直します。
このことを知った世の人々は、秀政を「名人」と呼ぶようになりました。
名人の意味
名人というと、将棋や囲碁の達人のことが思い起こされますが、ここでは「統治の名人」のことを指しています。
誰とも知らぬ者からの諫言であっても、それが適正な内容であれば素直に受け入れ、すぐに施政の見直しができる賢明な秀政は、もしも日本全体の政治を担うことになっても失敗することはないだろうと、そのように世の人々から思われたのでした。
それゆえに秀政は名人と呼ばれ、武将としてだけでなく、政治家としての名声も高めたのです。
活躍を続け、島津氏の心胆《しんたん》を寒からしめる
その後、秀政は九州征伐で先鋒の大役を担い、これを滞りなくこなしていきました。
豊臣軍は20万もの大軍を動員していたこともあって、連戦連勝を飾りましたが、秀政はある時、島津軍の兵士50名ほど捕らえ、捕虜にしたことがありました。
そして捕虜たちに「生きて戻りたいか?」とたずねると、捕虜たちは「戻りたい」と答えます。
秀政は「ならば解放してやるが、島津の武将たちに伝えて欲しいことがある」と続けます。
その内容とは「あまりに島津の兵が簡単に退却してしまうので、こちらは連日、次々と新しい城を攻めねばならず、疲れがたまってしまっている。せめて3日は持ちこたえ、こちらの足を休めさせてはくれぬか、と伝えて欲しい」と告げました。
それほどにこの戦いは豊臣軍が圧倒している、と述べたわけで、これを帰還した捕虜から聞いた島津氏の武将たちは、もはや敗北は必至かと悟ります。
島津氏の当主・義久は本拠の薩摩に迫られると、あっさりと秀吉に降伏しましたが、これにはおそらく、秀政のかけた圧力も影響していたことでしょう。
惜しくも若死にする
その後、秀政は天下統一の仕上げの戦いである、北条氏の征伐にも参加しました。
そして北条氏の本拠・小田原城の包囲戦に参加するのですが、この時に疫病にかかってしまい、やがて38才の若さで没しています。
秀吉は関東を支配下に置いたら、東国の統括を秀政に委ねようと考えていた、とされており、秀政の死を大いに嘆きました。
やがて九州征伐において、秀政の副将を務めた蒲生氏郷が会津(福島県)42万石の領主になるのですが、おそらくは秀政が生きていたら、その地位についていたのは秀政だったでしょう。
秀政の死は秀吉だけでなく、身分の上下を問わず、多くの人に惜しまれました。
【堀秀政の自画像と言われる絵 すでに老いたような姿で、死を予期していたのかもしれない】
直政が堀家を支える
その後、堀家は子の秀治が継ぎ、これを秀政の従兄弟である直政が支えています。
直政もまた、秀吉から「天下の仕置きもできるほどの陪臣(大名の家臣)」だと称賛されており、優れた能力を持っていました。
秀治は若年で頼りないところがありましたが、直政の補佐のかいがあって、堀家は1598年に30万石に加増され、越後(新潟県)春日山の大名になっています。
そして1600年の関ヶ原の戦いの際には、堀家では東軍につくか西軍につくかで意見が割れましたが、直政が東軍、すなわち徳川家康に味方するようにと人々を説得し、このために家名を存続することに成功しています。
こうして直政は秀政の死後にも、かつて交わした「堀家を繁栄させる」という約束を果たしたのでした。