山崎の戦い
軍勢の数と勢いで有利になった秀吉は、京で待ち構える光秀軍に迫ります。
摂津から京に入るには、山崎を通過しなければならないので、光秀は山崎まで進軍し、ここで秀吉軍を迎え撃つことにしました。
こうして山崎で両軍が対峙し、戦端が開かれると、はじめは一進一退の攻防が続きます。
しかし時間が経過するにつれ、やがて数で勝る秀吉軍が有利となっていきました。
そして光秀軍の右翼が、池田恒興や丹羽長秀の活躍によって突き崩され、それが波及すると、光秀軍は全軍が崩壊します。
敗北した光秀は戦場を脱出すると、本拠の坂本城に落ち延びようとしますが、その途中で土民に襲撃されて死亡しています。
こうして光秀は、信長を殺害してからわずか12日後に、秀吉に討たれて滅亡しました。
秀吉の素早い進軍と、巧みな多数派工作によって、光秀に態勢を整える隙を与えなかったことが、この結果を生み出したのだと言えます。
こうして信長亡き後の秀吉は、すさまじいばかりの知略をもって、天下人への道を邁進していきます。
柴田勝家の動き
【江戸時代に描かれた柴田勝家の絵】
一方で勝家は、本能寺の変が起きた際に、上杉景勝の支配下にある越中(富山県)魚津城の攻略に取りかかっていました。
そして本能寺の変の翌日、6月3日には魚津城を陥落させ、上杉景勝の本拠である越後(新潟県)に乱入する計画を立てます。
しかし、その日の夜に信長の死の知らせが届いたので、勝家は直ちに魚津の港で船に乗り、本拠地である越前(福井県)の北ノ庄城へ帰還し、光秀討伐の軍を集めます。
このあたりの動きは秀吉と同じでしたが、その速度には大きな差がついていました。
勝家が準備を終えて進軍を開始し、その軍勢が近江(滋賀県)に入ったのは6月18日のことで、すでに6日も前に、秀吉によって光秀が討たれた後でした。
この遅れによって、勝家は筆頭家老としての面目を失い、以後の情勢において、秀吉に押され続けることになります。
清洲会議の開催
こうして信長死後の混乱が収拾されたことから、織田家の後継者の人選と、遺領の分割について話し合うため、尾張(愛知県)の清洲城で会議が開かれることになります。
この時に発言権を持っていたのは、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興、そして柴田勝家の4名でした。
勝家は筆頭家老であり、丹羽長秀は二番家老でしたので、その立場からして発言権を得るのは当然のことだったと言えます。
池田恒興は彼らと比べると立場が下でしたが、山崎の戦いで活躍したため、この時から家老格として扱われるようになり、発言権を得ています。
そして秀吉は、従来より軍団長を務めていた重臣であり、光秀を討った立役者でしたので、この会議における中心的な立場を獲得することになります。
この4人のうちの3人が、山崎の戦いでひとつにまとまり、光秀を討っていますので、初めからこの会議は秀吉に有利な情勢となっていました。
信長の後継者問題
この会議ではまず、信長の後継者の地位を、次男の織田信雄と三男の織田信孝が争いました。
本能寺の変の際に、信長の後継者となるはずの、長男の織田信忠も死去していたので、この地位が空白となっていたのです。
信雄と信孝は、それぞれに「自分こそが後継者にふさわしい」と主張して譲らず、議論は平行線をたどります。
この時に秀吉と勝家らが話し合い、信忠の子で、信長の嫡孫にあたる三法師という3才の子どもを当主に据えてはどうか、という提案がなされ、両者の合意によってこれが成立しました。
この時に勝家は信孝を推し、秀吉が三法師を推し、争いとなりますが、秀吉が席を立った間に丹羽長秀と池田恒興が勝家を説得し、三法師が後継者となることが決まった、とも言われています。
いずれにしても、ここでは山崎の戦いに勝利した秀吉らの発言権が強く、その意図通りに物事が決められていきました。
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