羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

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新しい織田氏の体制が構築される

この時に秀吉が幼児を後継者に推したのは、織田家の力を弱らせ、自身の天下を確立するための下地作りを行ったのだと考えられます。

幼児が当主となれば、織田本家は何もすることができなくなり、その隙に政権を奪ってしまうことができるからです。
(後に秀吉自身も、徳川家康によって同じ構図で政権を奪われることになります。)

ともあれ、こうして三法師が織田家を継ぎ、信雄と信孝が後見人を務めることになります。

そして傅役(もりやく。教育係のこと)を堀秀政が務め、これを秀吉ら4人の重臣が支える、という体制が構築されることに決まりました。

しかしこれは信雄にしても、信孝にしても、勝家にしても不満なものであり、このために結局のところ、この体制はすぐに崩れていくことになります。

領地の分配

こうして後継者を定めた後で、信長や信忠の遺領や、光秀の領地の分配が話し合われました。

この時に秀吉には河内(大阪府)と山城(京都府)の2国が分配され、さらに信長の四男で、養子の羽柴秀勝が丹波(兵庫県東部)を相続したため、28万石の加増となり、領地の規模で勝家を上回るようになります。

これに対し、勝家は秀吉の領地であった近江の長浜と、北近江3郡を合わせて12万石を得ました。

勝家の領地は北陸にあったため、中央に進出するための拠点として、北近江を欲したのです。

秀吉は自分の領地を譲るにあたり、勝家自身ではなく、その養子の柴田勝豊に譲りたい、と条件を付け、勝家はこれを受け入れています。

このことが、後に両者が争った際に、意味を持ってくることになります。

それ以外には、丹羽長秀が近江で2郡を、池田恒興が摂津で3郡を加増されており、秀吉や勝家ほどではないにせよ、領地が拡大されています。

そして信雄が尾張を、信孝が美濃(岐阜県)を相続し、領地の分配が完了しました。

この結果、秀吉は名実ともに筆頭家老の地位を得ることになり、織田氏における影響力が増大していくことになります。

逆に勝家は、二番手の地位に後退しました。

秀吉派と勝家派の形成

会議が終了した後、秀吉は抜け目なく自分の味方を増やしていきました。

まず、三法師の傅役となった堀秀政を味方につけ、さらに丹羽長秀や池田恒興とも引き続き協力体制を構築し、秀吉派とも呼べる勢力を形成します。

さらに諸大名たちとも関係を取り結び、人質を取るなどして主従関係を構築していきました。

この秀吉の動きによって、さらに立場が危うくなった勝家は、信長の妹・お市の方と結婚し、信孝と手を結びます。
(お市の方との結婚は、勝家の不満をなだめるための秀吉の策であった、という説もあります)

さらに、信長の死後に関東の領地を失ったため、失脚していた滝川一益を味方につけて勝家派を形成し、織田氏は2つに分裂した状況となりました。

こうして対決姿勢が鮮明になったことで、秀吉と勝家はこの政争において有利な立場を築くべく、それぞれに次の策を実行に移します。

弾劾と信長の葬儀

勝家は、秀吉が織田氏傘下の大名たちと私的に同盟を結んでいたことをとがめ、信孝や滝川一益とともに、秀吉を弾劾する書状を諸大名に送りました。

一方で秀吉は、信孝が三法師を手元に抱えて離さず、清洲会議の決定に違反していることを理由に、信孝と勝家が謀反を起こした、と弾劾します。

こうしてお互いに非難をしあったことにより、両陣営の対立は深まっていきました。

秀吉は自身に正当性があることを示すため、養子の秀勝(信長の四男)を喪主にして、信長の葬儀を京の大徳寺で大々的に執り行いました。

この時に秀吉は信長の位牌を手にして葬儀に参加したことで、暗に自分が信長の後継者になる意向であることを、世間に示しています。

こうして秀吉は得意の宣伝工作によって、自身の立場を強めることに成功しました。

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