羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

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信雄を暫定的な当主に据える

一方で、織田家の当主と定めた三法師を、信孝・勝家らに抑えられているのは不利でしたので、秀吉は三法師が成人するまでの間、という条件付きで、これまで蚊帳の外にあった信雄を織田家の当主として擁立し、主従関係を結ぶことにします。

この措置によって秀吉派は織田家の家臣としての正当性を維持し、勝家派に対抗しました。

この措置によって清洲会議の決定は完全に破棄され、両派は戦国の世のならいに従い、戦いによって決着をつけることになります。

偽りの和平交渉

勝家は織田家臣団の中で、最も勇猛だと評されるほどに、武将としての優れた能力を備えていました。

しかし勝家には弱点があり、それは領地が北陸に位置していたことでした。

冬になって雪が降ると交通が遮断されるため、勝家は畿内の情勢には関与できなくなります。

こうした事情があったので、勝家は時間稼ぎをするために、冬が近くなると、秀吉に使者を送って和睦を働きかけました。

この時に使者になったのが、勝家の配下である前田利家や金森長近、不破勝光らの武将たちでしたが、秀吉は勝家の意図を見抜いていました。

このため、和睦に応じるふりをしてこの三将に調略をしかけ、自分の味方になるように働きかけています。

三将は寝返りの約束まではしませんでしたが、このことが、後に秀吉と勝家の戦いの決着に、大きな影響を及ぼすことになります。

外交戦

この戦いは周囲の諸勢力を巻き込んだものとなり、秀吉も勝家も、互いに各地の大名たちに調略を行っています。

秀吉は越後の上杉景勝を味方につけ、北陸に領地を持つ勝家の後背を脅かしました。

一方で勝家もまた、紀州(和歌山県)の雑賀衆を味方にし、こちらは和泉(大阪府南部)まで侵攻して秀吉の動きを牽制しています。

そして四国の覇者となりつつあった、長曾我部元親とも同盟を結びました。

毛利と徳川は中立を保つ

中国地方を支配する毛利氏への働きかけも行われましたが、この時に勝家は、信長に追放され、毛利氏に保護されていた将軍の足利義昭を京に迎えることを条件に、毛利氏を味方につけようとしています。

しかしこの時期の足利将軍家からは、権威も求心力もすっかりと失われており、この時代遅れの策は不発に終わります。

このあたりの動きを見るに、勝家には政治情勢を把握する能力は不足していたことがうかがえます。

慎重な毛利氏は勝家の誘いに乗らず、中立を保ち、どちらが勝者になるかを見極めることにしました。

東海道の徳川家康は、信長死後に空白地となった甲斐(山梨県)や信濃(長野県)の奪取と、統治の安定化に力を注いでおり、両者と外交的な接触は持っていたものの、中央の情勢には介入しませんでした。

この結果、外交では互いに決定打となるほどの大きな味方を得ることはなく、直接の対戦によって決着がつけられることになります。

この時点では秀吉と勝家のどちらが勝利するか、外部からは計りがたく、慎重に情勢を見極めたいと思う勢力が多かったようです。

秀吉による長浜城の奪還

秀吉は冬に動けない勝家の弱点を利用すべく、12月になると和睦を破棄し、軍事行動を開始しました。

秀吉は自分に味方する諸大名を動員して5万という大軍を編成し、清洲会議で勝家に譲っていた、近江の長浜城を奪還します。

この時に、勝家は約束通りに長浜城を養子の柴田勝豊に預けていました。

しかし勝豊は勝家との折り合いが悪く、降雪によって孤立していたこともあって、秀吉の家臣・大谷吉継の勧誘を受けると、あっさりと寝返っています。

秀吉はあらかじめこのことを見越して、勝豊を城主にする条件で、長浜城を譲っていたのでした。

こうして秀吉は、勝家が容易に南下できない情勢を作り上げます。

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