羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

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戦後の情勢の変化と、豊臣政権の確立

秀吉は毛利氏の重鎮である小早川隆景に書状を送り、勝利を知らせるとともに、暗に臣従を促しました。

毛利氏はこれに応じ、中立をやめて秀吉に臣従することを決定し、各地の大名たちが秀吉政権の傘下に入っていくことの、前例を作ります。

以後、越後の上杉景勝や、筑前の大友宗麟などが順次秀吉に使者を送り、その傘下に入っていきました。

秀吉は朝廷から従四位下・参議に叙任され、新たな本拠として大坂城の築城を開始するなど、天下人としての体制づくりを進めて行きます。

やがて敵対した信雄や徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で争い、和睦した後に両者を臣従させました。

こうして主な敵を制した秀吉は、朝廷から関白の地位と豊臣の姓を賜り、政権の樹立に成功しています。

これは1586年の出来事で、信長の死からわずか4年後の達成でした。

本能寺の変以後の秀吉の働きぶりはそれほどにすさまじく、勝家はその波に飲み込まれてしまったのだと言えます。

勝敗の原因

こうして見てきた通り、秀吉は戦術、調略、多数派工作のすべてにおいて勝家に勝っており、この結果として勝利を得ることができました。

勝家も信孝や滝川一益と連携し、雑賀衆を味方にするなどして秀吉を包囲する体制を作り上げる事に成功しており、決して無策だったわけではありません。

勝家は信長から筆頭家老に任命されるだけのことはあり、優れた武将であったことを十分に証明しています。

しかしながらこの時期の秀吉は、日本史上でも希に見るほどの抜群の知略を発揮しており、このために勝家は及びませんでした。

勝家が劣っていたというよりは、秀吉が優れ過ぎていたのだ、と評するのが妥当かと思われます。

しかしその秀吉も、天下統一後には精彩を欠くようになっていき、豊臣政権はわずか十数年で崩壊してしまいました。

鋭すぎる知略は、政権を安定させ、維持するのには不向きであったのかもしれません。