羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

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勝家の撤退

利家らが撤退したことで、こちらの方面に対応していた秀吉の軍勢が、矛先を変えて盛政の部隊に殺到し、これを撃破します。

そして秀吉軍のすべての部隊が、残る勝家の本隊に集中攻撃をかけたことで、織田氏随一の猛将と言われた勝家もこれを支えることができず、あえなく敗退しました。

勝家はわずかな兵とともに戦場を脱出し、北ノ庄城に向けて逃走します。

こうしてこの賤ヶ岳の戦いは、秀吉の勝利に終わりました。

敵の陣の乱れをつくべく、軍勢を高速で移動させ、調略によって敵の一部の無力化に成功したことが、この勝利をもたらしたのだと言えます。

北ノ庄城を包囲する

秀吉は勝利を確定するべく、逃走した勝家を追撃しました。

この時に、賤ヶ岳からの撤退後、越前の府中城に立て籠もっていた前田利家に使者を送って降伏させ、味方であることを明らかにさせるため、北ノ庄城への先鋒を命じました。

そして前田利家を加えた秀吉軍は北ノ庄城へとたどり着き、数万の軍勢で包囲します。

この時に勝家の手元に残っていた兵は200に過ぎず、落城は時間の問題でした。

最後の抵抗

勝家は残った将兵たちとともに天守に籠もり、狭い通路を利用して防戦を行います。

これに大勢の兵を繰り出して攻撃しても、損害が大きくなるだけだと判断した秀吉は、選抜した強壮な兵たちに波状攻撃をしかけさせます。

勇猛で知られる勝家の抵抗は激しく、6度に渡って攻撃を防ぎますが、7度目についに力尽き、天守に追い込まれます。

勝家は妻であるお市の方に城から落ち延びることを促しますが、お市の方は前夫である浅井長政に続いて、二度も夫を見捨てて城から逃げ出すのは嫌だと拒んだため、勝家とともに死を迎えることになりました。

お市の方の3人の娘は秀吉に託され、このうちのひとり、茶々が後に秀吉の側室となり、秀頼を生むことになります。

勝家の自害

勝家は天守の最上階に登り、そこで「勝家の腹の切りざまを見て、後学にするがよい」と声高に告げ、お市の方を含む妻子たちを一突きにし、残った80人の家臣とともに、自害しました。

勝家は切腹の作法にのっとって十文字に腹を切り、侍臣に介錯させています。

そしてこの侍臣は用意してあった火薬に火をつけ、天守を焼き払いました。

こうして勝家の一族と側近たちは、ことごとく亡くなっています。

前田利家の人質を無事に送り返す

勝家はこの直前に、前田利家から預かっていた人質を送り返していました。

利家が敗北の原因を作ったわけですので、報復のためにこれを殺害してもおかしくなかったのですが、無事に送り返したところに、勝家の潔い人柄がよく現れています。

こうして勝家がこの世を去り、織田氏の内部で秀吉に対抗できるものはいなくなり、信長の継承者は、秀吉に決定しました。

敗者たち

勝家が敗れ、まもなく信孝や滝川一益も降伏し、戦いは完全に終結しました。

信孝は兄の信雄に預けられた後、自害を強いられて死去しています。

滝川一益は所領を没収された後、秀吉から召喚されて家臣となり、小牧・長久手の戦いに参戦したり、関東の諸侯との外交を担当するなどして、武将としての活動を続けました。

賤ヶ岳の戦いで活躍した佐久間盛政は、敗北後に領地の加賀(石川県)に逃れようとした途中で捕縛され、秀吉との対面を希望します。

この時に秀吉は盛政の武勇を惜しみ、九州を平定したら肥後(熊本県)一国を与えるから家臣になれ、と勧誘しますが、盛政が死罪となることを強く望んだため、やむなく彼を処刑しています。

盛政は勝家に非常に気に入られていますが、ともに潔い性格の持ち主であり、そのあたりが両者の関係を良好にした要因だったのだと思われます。

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