松永久秀は本当に極悪人だったのか?

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足利義輝の殺害

1565年に、義継と三好三人衆、そして久秀の嫡子・久通が1万の軍勢を率いて京に入ります。

そして彼らは義輝の住居である二条御所を襲撃し、白昼堂々と将軍を殺害しました。

これは義輝が長慶の死を契機に、将軍の権力を強化し、親政を行おうとしたことに、三好一党が危機を感じて断行したのだと言われています。

この殺害事件は久秀が主導したという説があるのですが、久秀はこの時に大和に滞在していて、京での襲撃には参加しておらず、事実ではありません。

しかし、嫡子の久通が襲撃に参加していることから、積極的ではなかったにせよ、ある程度の関与はしていたものと思われます。

三好三人衆との対立

こうして三好氏を率いる長慶と、将軍の義輝が相次いで死去したことで、畿内の情勢は混沌としていきます。

義輝を殺害した三人衆は、新たに足利氏の一族である義栄(よしひで)を擁立しようとしました。

他の将軍候補には義輝の弟・義昭がいましたが、彼は事件当時に、大和にある興福寺の僧になっていました。

久秀は自分の勢力圏にいた義昭を保護しており、三人衆とは異なり、義昭を擁立しようとする考えを持っていたと言われています。

いずれにしても、長慶死後の三好氏の内部では、久秀と三人衆の主導権争いによる対立が深まっていきました。

三好三人衆は阿波を本拠とする四国側の勢力で、畿内を根拠地とする久秀とは利害が異なっており、あまり関係がよくありませんでした。

やがて義昭が興福寺を脱出し、越前に逃れたことが発覚すると、三人衆は久秀の責任を追求し、これによって両陣営の関係は完全に破綻しました。

このあたりの流れを見るに、将軍の襲撃について、久秀と三人衆の間で意思疎通が図られていたかのかどうかは、かなり怪しいのではないかと思われます。

三人衆と戦う

一方で、三人衆は足利義栄の擁立にかまけ、長慶の後を継いだ三好義継の立場を軽視するようになっていきました。

もともとが、本来の後継者である義興の代理でしかなかったので、三好氏における権力基盤が弱く、ないがしろにされがちでした。

それに加えて義栄が偏重されたこともあって、義継は三人衆に対して不満を抱くようになっていきます。

これを受け、三好氏内部で孤立しつつあった久秀は義継を支持し、三人衆との対決姿勢を強めました。

大和での戦い

三人衆は久秀と戦うにあたり、大和の戦国大名として、かつては勢力を誇っていた筒井家の当主・順慶と手を結び、久秀の大和支配を揺さぶってきます。

そして三人衆の軍勢が大和に侵入し、順慶や寺社勢力と協力して、久秀の新たな居城となっていた、多聞山城(たもんやまじょう)を包囲しました。

久秀は築城を得意としており、彼が築いた多聞山城もまた、堅固な城塞でした。

このため、兵力に勝る三人衆の攻撃をよく持ちこたえ、2年にもわたるにらみ合いが継続することになります。

義継が出奔し、久秀を頼る

やがて1567年になると、三人衆よりも、長慶に忠実に尽くしていた久秀を頼った方がよいのではないかと側近たちに勧められ、義継は出奔し、久秀のところへとやってきました。

この時の評価から、久秀は三好本家に対しては忠実であると、三好氏の人々からも見られていたことがわかります。

これ以後の久秀は義継と行動をともにしており、長慶に対するのと同じく、忠実に仕えています。

三人衆は三好氏の本拠である阿波を抑えて強勢であったため、久秀はこれまで苦戦を強いられていましたが、義継が久秀を頼ったことにより、いくらか勢力を盛り返しました。

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