龐統が劉備を説得する
こう言われてもなお、劉備は劉璋への信義を裏切り、益州を奪う事をためらっていました。
すると参謀の龐統が、「武力で益州を奪うのは道義に反する行いですが、その後で文治を施し、正しい行いをすればよいのです。
そして天下が定まった後、劉璋を大国に封じて報いれば、信義に反することにはなりません。
それに、いま益州を奪わなければ、必ずや他人のものになってしまうでしょう」と言って説得します。
実際のところ、劉璋が惰弱で、益州は豊かな土地でしたので、曹操も孫権も益州を狙っていました。
ですので、劉備もこの機に動かなければ、彼らに対抗する手段がなくなることを理解し、ついに益州奪取を決意します。
劉備が益州にやって来るも、張松は処刑される
劉備は益州に数万の軍勢を率いておもむき、劉璋に歓待されました。
その後、一年ほど葭萌に帯陣し、周辺の地域に恩徳を施し、影響下に置いていきます。
やがて龐統が献策し、荊州に帰るふりをして劉璋軍の油断を誘い、将軍を討ち取ってから挙兵することにします。
しかしこの時、策を張松に伝えていなかったために、張松は劉備が本当に荊州に帰るつもりだと誤解し、慌てて引き留める手紙を送りました。
この手紙が漏洩してしまい、張松の陰謀が発覚し、彼は処刑されてしまいます。
こうして法正は同志を失いましたが、劉備の元に逃れ、いよいよ益州奪取に取り組むことになります。
劉璋は献策を採用せず
その後、劉備は益州各地を攻略し、順調に勢力を拡大していきました。
すると益州従事(副官)の鄭度が、劉璋に作戦を提案します。
それは劉備が本拠から離れており、食糧を現地調達に頼っていることの弱点をつくものでした。
「劉備の勢力圏と隣接している地域の住民を移住させ、倉や野にある穀物を全て焼き払いましょう。
そして砦の防備を固めれば、劉備は食糧が調達できず、撤退せざるを得なくなります」というのがその策でした。
いわゆる焦土作戦です。
これが実施されると、劉備軍は危機に陥ったことでしょう。
劉備はこの話を伝え聞くと不快に思い、法正に相談しました。
すると法正は「劉璋がこの策を取り上げることはないでしょう。ご心配なさることはありません」と答えました。
法正が予測したとおり、劉璋は「わしは敵を防いで民を安んじるという話は知っているが、民を移動させて敵を避けるなど、聞いたことがない」と言って、採用しませんでした。
劉璋は軍事のことがわからない人間でしたので、策の良し悪しを見分けることができなかったのです。
法正が劉璋を見限ったのは、そういったところにも原因があったのでしょう。
劉璋に降伏を勧める
やがて劉備軍が雒城を包囲すると、法正は劉璋に、降伏を勧める手紙を送っています。
この時に法正は、「雒城を一万の兵士で守らせても、全体の戦況はすでに劉備側に傾いるため、すでに敗軍の兵であり、抵抗してもいずれは必ず敗れます」と伝えます。
そして「劉備はあなた個人に害意は持っていないため、降伏すれば一門は維持されることになります」とも述べました。
この手紙の影響もあってか、劉備軍が成都に迫ると、劉璋は間もなく降伏しています。
実際のところ、法正が書いた通り、劉備は劉璋が降伏した後に、将軍の印綬や財産を返却しており、丁重に取り扱いました。
なお、雒城攻略戦の最中に、もう一人の劉備の謀臣であった龐統が戦死しています。
このため、残った法正の存在価値が、大きく高まっていくことになりました。
許靖の取り扱いに進言をする
劉備軍は雒城を陥落させると、劉璋の本拠である成都に迫ります。
するとこの時に珍事が起き、劉璋に仕える蜀郡太守・許靖が城壁を乗り越えて投降しようとします。
しかし事前に発覚したために、果たせませんでした。
普通ならば処刑されるところでしたが、劉備軍が目前に迫る危機的な状況でしたので、許靖は見逃されます。
こうした事情があったため、劉璋が降伏した後、劉備は不忠なふるまいをした許靖を起用しようとはしませんでした。
それを見て法正は劉備に進言をします。
「天下には虚名を得ながら、実質が伴わない者がおります。
許靖はそれに当たると言えるでしょう。
しかし、ただいま殿は大業を始められており、天下の人々から支持を得なければなりません。
許靖の虚名は国中に広く伝わっており、もし礼遇をなさらなければ、天下の人々は殿が賢者をないがしろにしている、と判断するでしょう。
敬意を持って丁重に扱い、世間の目をくらまされるのがよいと思います」
許靖は人物鑑定に優れ、朝廷に有能な人材を推挙する、重要な仕事をしていたことがあります。
そのうえ戦乱の時代になると、自分を頼ってくる人々を助け、生活の面倒を見てやったので、高い名声を得ていました。
年老いると見苦しいふるまいをするようになっていましたが、そのことは世間に知られていませんでしたので、法正は許靖に地位を与えておくべきだと判断したのです。
劉備は法正の言葉に納得し、許靖を厚遇するようになりました。
このように法正は実利を重視する、冷徹な判断力を備えていたのでした。
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