今川氏真 父・義元の死後に全てを失うも、しぶとく生き延びた武家貴族の生涯について

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幕府から領地を安堵される

やがて家康が征夷大将軍となり、幕府を開いた後に面会し、氏真は領地の安堵を受けて今川氏を存続に成功しています。

家康は今川氏にかぎらず、足利氏一族の旧貴族たちを小領主として温存する政策をとっており、氏真もその恩恵を受けることができました。

また、かつの主家であることから、律儀な性格である家康からは、一定の配慮がなされていたと思われます。

氏真が早くに武将を辞めて野心を捨てていたことも、平和になった時代ではかえって好ましく思われたかもしれません。

長男の範以(のりもち)は早世してしまいますが、その子の範英は二代将軍の秀忠に仕えて1000石に加増され、「高家(こうけ)」という諸大名に礼儀作法を教える身分になっています。

今川氏は室町幕府から武士たちに礼儀作法を教える資格を与えられており、それが江戸時代になっても継続されたことになります。

(余談ですが、今川氏と同じく足利氏の一族であった吉良氏も高家に取り立てられており、後に浅野内匠頭といさかいを起こし、「忠臣蔵」で知られる仇討ち事件を発生させています)

次男の高久も秀忠に出仕しており、品川姓を名のった上で1000石を与えられ、こちらも高家として存続します。

こうして氏真の血統は、ふたつの血脈をもって徳川幕府の中で生き残っていくことになりました。

大名としては滅亡してしまったものの、今川氏の名跡を後世に残すことには成功したわけで、これもまたひとつの達成だとは言えるかもしれません。

その死

1612年に氏真は駿府で家康と対面し、品川に屋敷を与えられました。

これには年老いた氏真の長話に辟易した家康が、氏真を遠ざけるために品川に屋敷を与えたのではないか、という真偽不明の逸話もあります。

これを受けて氏真は次男の高久や孫の範英が住んでいる江戸に移住し、そこで晩年を過ごしました。

1613年には長年連れ添った妻の早川殿に先立たれ、1615年には氏真も亡くなっています。

享年は77で、当時としてはかなりの長命だったことになります。

氏真への評価

三ヶ国を支配する大大名であった今川氏をあえなく滅亡させてしまったことから、無能な大名の代表格として語られることが多い人物です。

実際のところ、それまで長く駿河や遠江の支配を行っていた勢力を、わずか数年で滅ぼしてしまったのですから、氏真に戦国大名としての能力や適性がなかったのは確かでしょう。

剣術を高名な塚原卜伝に習っており、性格には意外と剛毅なところもあったと言われていますが、武田信玄や徳川家康といった、優れた戦国大名たちに囲まれた環境では、氏真の気概などはまるで通じなかったようです。

領国を失った後は下手に強い者に逆らわず、ひたすら従順に世を過ごしており、それが戦乱の中で氏真を生き延びさせる要因になりました。

氏真は今川氏を滅ぼしてしまったことで、自分には大名や武将としての才能はないと自覚し、以後は無理をしないことを自分の処世訓として生きていたのかもしれません。

それが功を奏し、江戸時代にそれなりの規模の旗本として、今川氏と品川氏を存続させることにつながりました。

剣術などの武芸の世界においては、自分の力量を正確に見極めることが重要なのだそうですが、氏真も自身の限界をきちんと判断できていたという意味では、習っていたことの意義はあったのかもしれません。