今川氏真 父・義元の死後に全てを失うも、しぶとく生き延びた武家貴族の生涯について

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家康を頼る

1571年に北条氏康が死去すると、後をついだ氏政は信玄との同盟関係を再構築し、今川氏の敵となってしまいます。

このため、氏真は早川の屋敷を出て遠江の家康を頼ることにします。

家康からしても、遠江の支配を確立して駿河を狙う上で、旧領主である氏真を抱えていることには利益があるため、これを受け入れます。

氏真はこうして、かつては父の家臣でしかなかった家康のもとで生き延びることになりました。

氏真はこの頃に浜松に移動しており、以後はしばらく同地に滞在することになります。

信長と面会する

1575年になると氏真は京都に上洛し、駿河での和歌の会に参加していた公家たちと再会しています。

また、相国寺で父の仇である織田信長とも対面し、信長から蹴鞠を見せて欲しいと言わます。

このため、数日後に相国寺で公家たちとともに蹴鞠を行って信長に披露しています。

蹴鞠は鞠を蹴って宙に打ち上げ、それを落とさぬようにして蹴りあい続けるといった競技です。

これを行わせることにより、信長は氏真が自分に反抗心を抱いているのかどうかを試したのかもしれません。

かつての家臣であった家康を臆面もなく頼っていることからも分かる通り、氏真はよくも悪くも誇り高い人物ではなかったようで、それが戦乱の世において、氏真を最後まで生き延びさせた要因になったと思われます。

家の復興のために頑強に抵抗運動を続けていたら、何らかの形で殺害されていたでしょう。

氏真は単に公家趣味の人であるだけでなく、身も心も柔和で、公家に近いものを備えており、戦いに明け暮れる戦国大名や武将といった立場には向かない人だったのかもしれません。

今川氏は駿河に武家貴族として長く君臨した末にこのような人物を生み出し、そして滅んだのだとすれば、妥当な成り行きだとも言えるでしょう。

牧野城主となるも一年で解任される

その後の氏真は、家康と武田勝頼との戦いに参加しており、1576年には遠江の牧野城主に任じられ、家康の家臣の補佐を受けて武将として働いてます。

しかし翌年には解任されて浜松に召喚されました。

この頃に剃髪して宗誾(そうぎん)と名のっており、以後は武将として働くことはありませんでした。

これで駿河の奪還は完全にあきらめたことになります。

氏真はこの時まだ39才でしたが、向かないことには執着しない、というのが氏真の処世術だったのかもしれません。

京都に移住して文化的な生活を送る

氏真は隠居後も500石の領地を与えられており、そこからの収入で豊かというほどではないものの、悠々自適な生活を送っていたようです。

1590年頃から京都に在住し、冷泉家の開く連歌の会に頻繁に顔を出していたという記録があります。

また、古典の書写を行ってもおり、氏真は自分に合った、文化的で気楽な生活を送っていました。

そして生涯に渡って1600首以上を詠むほどに和歌に傾倒しました。

そのようにのめり込んだかいがあってか、氏真は後水尾天皇が選んだ「集外三十六歌仙」に数えられており、和歌の道である程度の評価を受けています。

この集外三十六歌仙は、公家を外して武家の歌人のみを選んだもので、武田信玄や北条氏康なども含まれています。

そのため高い評価を受けた、とまでは言い切れないところがありますが、一定の水準には達することができたようです。

この頃に家康の家臣を訪問した記録もあり、徳川家との関係は継続されていたようです。

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