今川氏真 父・義元の死後に全てを失うも、しぶとく生き延びた武家貴族の生涯について

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三河の離反

義元の予想外の死によって、氏真は今川氏の全権を担うことになります。

しかしその統治は初めからつまづくことになりました。

三河で父の家臣だった松平元康が自立を宣言し、今川氏の支配から離脱してしまったのです。

そして1562年になると、元康は父の仇である信長と同盟を結び、今川氏に敵対する姿勢を明らかにします。

これを受け、氏真は自ら軍勢を率いて三河の牛久保城を攻撃しますが、元康の反撃を受けて撃退されてしまいました。

元康の「元」の字は義元から与えられたものでしたが、今川氏から離脱したことを明確にするため、松平家康と改名しています。

家康はその後、東三河の要衝である吉田城を支配下に収め、今川氏の勢力を三河から完全に駆逐しました。

こうして氏真の領地は駿河と遠江の二ヶ国だけになってしまいますが、遠江も盤石とは言えない状況でした。

遠江の動揺

桶狭間の戦いで多くの国人領主が戦死したことから各地で相続争いが発生し、遠江の情勢もひどく不安定なものとなっていました。

これにかねてより今川氏の支配に不満を持っていた者たちの離反も重なり、氏真の支配が及ばない状況になります。

1562年には謀反の疑いがあった国人領主の井伊直親を、家臣の朝比奈泰朝に命じて誅殺させていますが、こうした強硬な措置はさらなる反発を招くことになります。

1564年になると、遠江の有力な武将である飯尾連龍(つらたつ)が家康と同盟を結び、氏真に反旗をひるがえします。

これを受けて重臣の三浦正俊に連龍を討伐させようとしますが、逆に正俊が戦死してしまい、遠江での支配権も弱体化していくことになります。

その後、謀略によって連龍を暗殺し、その居城である曳馬城を攻め落として占拠するものの、その頃には今川家臣団の結束はなきに等しいものとなっていました。

政治改革を行う

それでも内政を行う家臣にはそれなりに意欲のある者もいたようで、商業権の制限を緩和して流通を盛んにさせる「楽市」の政策を取るなどして政治・経済改革に乗り出しています。

また、従来の国人領主の集合体である今川氏の体制を、家臣たちを直接統治する中央集権制に切り替えようとした形跡もあるのですが、衰退する情勢の中では、かえって家臣団の離反を押し進める効果しかなかったようです。

中央集権制への移行は、家臣たちにとっては独立した権限を取り上げられる政策なので、これに賛同するはずがありませんでした。

それ以外には借金を棒引きにする徳政令の実施や労役の免除を行うなどして、今川氏への求心力を維持しようと努めてはいたようですが、これらは経済活動の不活性化を招く政策であるため、さほどの実効性はなかったと思われます。

連歌や茶会にふける

今川氏が危機に陥る中、氏真は連歌の会や茶会を盛んに催しています。

1567年には駿河で風流踊という、楽器の演奏に合わせ、仮装をした人々が踊るという催し物が急に盛んになり、氏真も自ら参加して太鼓を叩くなどしていたようです。

このように、政務を一部の寵臣に任せ、氏真自身は遊興にふけっていたことが、今川氏に急速な衰退をもたらす原因になったと言われています。

氏真からすれば、父の死後は日に日に悪化していくばかりの政情に嫌気がさし、現実逃避のために和歌や茶会などに興じていたのかもしれません。

いずれにしても、今川氏には破綻の時が迫っていました。

隣国が弱体化すれば、直ちにつけこんでくるのが戦国という時代だからです。

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