劉備に会いに行く
200年ごろになると、劉備が荊州にやってきて、領主の劉表に迎えられます。
そして新野に駐屯し、曹操の攻撃に備える役割を担いました。
徐庶は劉備に興味を持って会いに行き、新野に出入りをするようになります。
すると劉備は、徐庶の器量を高く評価し、親しく付き合うようになりました。
徐庶もまた劉備の人柄に引かれ、彼を補佐し、霸業に力を尽くしたいと考えるようになります。
諸葛亮を紹介する
そんなある日、徐庶は諸葛亮のことを劉備に紹介します。
諸葛亮はこの頃、まったく世に出ようとせず、郊外で農業を営みながら、隠者の暮らしをしていました。
これを徐庶は惜しいと思ったのか「諸葛孔明は臥龍(眠れる龍)です。将軍は彼に会いたいと思いますか?」と劉備に質問します。
劉備であれば諸葛亮を動かせるかも、と期待するところがあったのかもしれません。
すると劉備は興味を示し、「君が連れてきてくれないか」と言いました。
徐庶はこれに対し「彼はこちらから訪ねて行けば会えますが、呼びつけることはできません。将軍が車をまげて、訪問されるのがよろしいでしょう」と答えます。
三顧の礼と、天下三分の計
すると劉備は諸葛亮に強く関心を持ち、徐庶に言われた通りに会いに行きます。
徐庶のことを評価していたので、その彼が勧める人材なら、と思ったのでしょう。
しかし諸葛亮は不在のことが多く、三度目の訪問で、ようやく会うことができました。
そして劉備は、曹操を打倒し、漢王朝を復興させるにはどうすればよいかと相談します。
すると諸葛亮は、荊州と益州を領有し、孫権と同盟を結べば強大な曹操にも対抗できるという、いわゆる「天下三分の計」を示しました。
これによって劉備は諸葛亮の見識を高く評価し、親しく交わるようになります。
こうして徐庶は、時代の流れを変える上で、大きな役割を果たしたのでした。
曹操が荊州に侵攻する
劉備が諸葛亮と出会ってほどなくして、体制を整えた曹操は、荊州に大軍を率いて侵攻してきます。
この時、荊州は劉表から子の劉琮に代替わりをしていましたが、劉琮は抵抗せずに、あっさりと曹操に降伏してしまいました。
このため、劉備は手勢を率いて荊州の南方に逃れることにしますが、曹操の支配を嫌う、荊州の10万もの人々が同行することを望み、これを受け入れます。
これによって劉備の人望は高まりますが、行軍速度が極端に遅くなり、やがて曹操の追撃を受けることになりました。
徐庶の母が捕らわれてしまう
曹操は、自ら軽装の部隊を率いて劉備を追撃し、一昼夜で三百里(120km)を駆け抜けました。
このため、劉備たちは長坂で曹操に追いつかれてしまいます。
非武装の人々が大勢いましたので、劉備はまともに戦えず、側近たちを連れて逃走しました。
徐庶もまた、自身は逃れることに成功したのですが、この時に、母を曹操軍に捕らえられてしまいます。

劉備と別れる
徐庶はこのことを知ると激しく動揺し、劉備に次のように言いました。
「将軍とともに王霸の業を行うつもりでいたのは、この方寸の地(心臓)においてでした。
いま老母を失い、この方寸は混乱しています。
これでは、事態にうまく対処していくことはできず、無益です。
ですので、ここでお別れしたいと思います」
劉備は徐庶が母を思う気持ちをくみとり、これを許しました。
こうして徐庶は曹操の元に向かい、本意ではない相手に使えることになります。
そして石韜や孟建もまた、曹操に仕官しました。
四人の学友のうちで、劉備に仕えたのは、結局は諸葛亮だけとなったのでした。
その後の徐庶
その後、徐庶は魏の臣下となり、右中郎将・御史中丞にまで昇進しました。
また、彭城の相(長官)にもなっていたようです。
御史中丞は皇帝直属で、役人や公卿を監察し、弾劾する役目でしたので、高官の地位にあったのだと言えます。
後漢では朝廷の集会において、司隷校尉(首都長官)や尚書令(政務長官)と並んで、単独の席に座れるという待遇を受けていました。
諸葛亮は「刺史や郡守になれるだろう」と予測しましたが、徐庶は実際には、それを上まわる地位についたのです。
なお、孟建は涼州刺史となった後、征東将軍(東方の複数の州を束ねる地位)にまで昇進しています。
そして石韜は各地の郡守を歴任し、典農校尉(地方の農政担当者)となりました。
つまり、徐庶と孟建は諸葛亮の予測を上まわり、石韜はおおむねその通りとなったのでした。
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