丞相とは 三国志では曹操や諸葛亮が就任

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三国時代には

諸葛亮

やがて三国時代になると、蜀では諸葛亮が丞相に就任しました。

【蜀漢ただひとりの丞相・諸葛亮】

諸葛亮は他にも大将軍や益州牧などの地位も兼ねており、政治と軍事を一身に担い、北伐を実施して魏の打倒を目指しました。

諸葛亮が亡くなった後、蜀では丞相は任命されず、諸葛亮のみが就任した特別な地位となっています。

陸遜

呉では陸遜りくそんがそれまでの功績を称えられ、244年に就任しました。

しかし間もなく皇位の継承争いに巻き込まれ、孫権の不興を買うようになります。

そして孫権から何度も使者を送られ責め立てられたので、翌年には憤死してしまいました。

陸遜にとっては、丞相に就任したのはよいことではなかったのでした。

この頃から呉は傾き始めます。

司馬昭

魏では設置されていませんでしたが、263年に司馬昭が相国となり、権力を掌握します。

そして曹操と同じく、魏王朝から帝位を簒奪する準備を開始したのでした。

歴史は繰り返されると言いますが、後漢と魏は同じような形で終焉したのです。

その後

その後は時代によって設置されたり、されなかったりしています。

明(1368年 – 1644年)の初めごろまで設置されていましたが、以後は廃止されています。

日本では

日本では律令制がしかれると、右大臣や左大臣が設置されましたが、これを右丞相や左丞相と呼ぶことがありました。

このため、右大臣になった菅原道真は「菅丞相かんじょうしょう」と呼ばれています。

後に道真は太宰府に左遷され、怨みをのんで亡くなったとされており、このために怨霊伝説が作られていきました。

そのうちのひとつが「菅丞相」という能楽の演目になっています。

筋立ては以下のようなものです。

菅丞相の亡霊がかつての師である僧侶の元に現れ、朝廷に招かれても参内しないでほしい、と懇願します。

しかしこの僧侶は、朝廷から三度にわたって要請されたなら、王が治める地に住むものとして、応じないわけにはいかない、と答えました。

すると菅丞相は怒り、火炎を放ち、それにまぎれて姿を消します。

その後で僧侶が、天皇の悩みを晴らす祈祷をするために参内しようとすると、雷神を従えた菅丞相が妨げようとします。

僧侶はこれを説得し、牛車を先導してともに内裏に向かいました。

菅丞相は天皇に怨みをぶつけて悩ませますが、最終的にはそれが解消され、天満天神となって国土の守護神になりました。

この話は「雷電」という題に改編され、今でも演じられています。