河南尹とは 三国志では夏侯惇や司馬芝が就任

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河南尹かなんいんは地域名であり、官職名でもあります。

後漢の首都・洛陽らくようがある地域なので、他と差別化するために「いん」が使われています。

行政単位としては、郡と同じ規模です。

この地域を担当する行政長官もまた、河南尹と呼ばれました。

郡を統治する太守と同じような立場でしたが、首都を担当していましたので、その重みがやや異なっています。

尹とは

「尹」という文字は「杖を持つ者」を形象しており、「神の意志を人々に伝え、調和をもたらす者」という意味を持っています。

なので河南尹は「天子である皇帝が住まう場所」と「そこを治めて調和をもたらす長官」を意味しているのでした。

河南尹の職務

河南尹は首都である洛陽と、その周辺(畿内)地域を統治するのが役目で、現代で言えば都知事にあたります。

具体的には、洛陽を含む21県を管轄しました。

といっても都市部を管理する華々しい仕事、というわけではなく、農業の振興や治水対策、犯罪の取り締まり、身寄りのない老人や子供への物資の配布など、民の生活に密着する地道な業務を担当していました。

そして役人たちが不正を働かないよう、監督する役目も担いました。

三国志では夏侯惇が就任

夏侯惇

三国志では、曹操の腹心である夏侯惇が就任しています。


【内政を得意とした夏侯惇】

夏侯惇というと、隻眼の猛将というイメージがありますが、実際には戦いは得意ではなく、内政を担当することが多かったのでした。

199年ごろに河南尹となり、以後は長くこの職務についています。

夏侯惇はこれ以前に、えん州が干ばつに見まわれた際に、自ら土をかついで治水事業を行い、将兵たちに稲を植えるように指導し、農作物の収穫量を増やした実績がありました。

その上、清廉で不正を働く心配がなかったため、曹操から河南尹の仕事を任されるようになります。

軍人としては後方支援の仕事を果たし、204年に伏波ふくは将軍に昇進しました。

その際に河南尹の地位は継続され、法令に拘束されず、自己の判断で適切な処置をとることが許可されています。

このことから、夏侯惇は統治者として優れていたことがわかります。

洛陽が再び都になる

当時の洛陽は、董卓の手によって略奪と放火がなされ、その上、住人が長安に強制移住をさせられた後でした。

ですので人口が激減し、犯罪も横行していたと推測されますが、夏侯惇はその立て直しに治績をあげたのです。

夏侯惇が統治していた頃は、洛陽が衰退していたため、曹操はきょぎょうを都にしていました。

やがて曹丕が魏を建国すると、洛陽は再び首都に返り咲くことになります。

これはそれほどに、夏侯惇の立て直しが成功したことを表しています。

夏侯惇が曹操に尊重されたのは、長く時間がかかる地道な仕事を、やり遂げられる能力があったからなのかもしれません。

司馬芝

魏が建国された後には、司馬芝しばしが河南尹となりました。

司馬芝は強者を抑え、弱者を助ける義心を持っており、個人的に便宜を図ってほしいと頼まれても、決して応じない清廉な人物でした。

首都の行政長官であるだけに、常に様々な誘惑を受けることが多かったはずですが、司馬芝は一度も不正を働きませんでした。

妻の伯父で、魏の重臣である董昭とうしょうですらも司馬芝におそれをなし、誰かに頼み事をされても、決してとりつがなかったほどです。

『三国志』の中では、「魏から今(晋代)まで、河南尹で司馬芝に及ぶ者はいない」とまで称賛されています。

夏侯惇もまた、性格は清廉で慎ましやかだったと記されていますが、そのような人物たちが長官になり、職務に励んだことで、洛陽は繁栄を取り戻していったのでした。

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