宦官とは 蔡倫・曹騰・十常侍について

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霊帝も宦官を重用する

やがて桓帝が崩御すると、後を継いだ霊帝も、宦官を重用し続けました。

そして二度目の党錮の禁を実施し、今度は官僚の一族郎党までもが追放されています。

そのうえで霊帝は、張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅうという宦官たちに大きな権限を与えます。

彼らは「十常侍じゅうじょうじ」と呼ばれ、自分の親類縁者や、多額の賄賂を贈った者を地方の長官に任命し、重税を絞りとるなどして、後漢の統治力を損なっていきます。

やがて霊帝の母・とう太后と父の大将軍・竇武とうぶがこれらの宦官たちを排除しようと画策します。

しかし、竇太后が宦官の一掃には反対し、罪のない者は見逃すようにと言って時間が過ぎるうちに、宦官たちがこの動きを察知しました。

そして逆に「竇武は霊帝を廃位しようと企んでいる」と罪を着せられて失脚し、竇太后もまた実権を失いました。

その後、霊帝はいくら官僚たちが批判しても、宦官を用いることを辞めず、加えて宮殿の造営のために、新しく税を課すようなふるまいに出ています。

ただでさえ重税に苦しめられるようになっていた民衆は、これによって皇帝にも失望し、後漢への支持は潰えてしまいました。

このようにして、皇帝と宦官がバランスを損なったことで、後漢は滅亡への道を歩み始めたのでした。

やがて各地で反乱があいつぐようになり、184年には黄巾こうきんの乱という大乱が発生します。

何進と十常侍

黄巾の乱の鎮圧後、189年に霊帝が崩御すると、少帝弁しょうていべんが即位しました。

その頃には、皇帝の母である太后の兄・何進かしんが大将軍に就任していました。

何進は袁紹らの進言を受け、宦官と対立し、彼らを排除しようと計画します。

袁紹は四代にわたって三公を輩出していた名門の出身でしたが、それゆえに官僚勢力を代表する家柄だったのだと言えます。

このため、官僚を排除した宦官たちに対する憎しみは、人一倍強かったのでしょう。

しかし何太后が宦官の排除に反対したため、計画はなかなか進みませんでした。

これは先の竇太后と竇武の時の状況に、よく似ています。

太后は普段から宦官と親しく接する立場にあるため、宦官に対する憎しみが強くなかったことと、宦官の中には学問があり、まともな見識を持っている者たちが存在していることも知っていたため、完全な排除には反対したのです。

宦官たちも一枚岩ではなく、暴政を行う十常侍たちを批判する者もいました。

業を煮やした何進が、何太后に決断を迫るため、地方から董卓や丁原といった将軍たちを呼び寄せ、軍事力によって圧迫しようとします。

そうこうしているうちに、十常侍たちは何進暗殺の計画を進め、彼が宮中に参内した際に、息のかかった兵士たちに命じて殺害させました。

するとこれを知った袁紹が兵を率いて宮中に乱入し、十常侍を含む宦官たちを皆殺しにします。

わずかに生き残った宦官たちは、皇帝と弟の身柄をさらい、宮殿の外に脱出しました。

しかし追いつめられた宦官たちは自害し、残された皇帝と弟はあたりをさまよううちに、董卓に保護されて都に戻ります。

しかしこの時には、皇帝の権力を支える宦官も大将軍も失われており、彼らの身を守る者は誰もいなくなっていました。

董卓
【宦官勢力が消失した後に権力を握った董卓】

董卓と曹操

やがて少帝弁は廃位され、弟が献帝として即位します。

献帝は幼いころに母を亡くしており、頼りにできる親族が乏しい境遇にありました。

董卓はそれを利用して専横の限りを尽くしますが、反発した諸侯が董卓と争うようになり、戦乱の時代に突入します。

やがて曹操がこれを制すると、献帝を推戴して自分の地位を高めていきます。


【権力掌握のために献帝を利用した曹操 彼の手によって後漢はとどめを刺された】

しかし献帝には何ら実権を与えず、やがて後漢にとってかわろうとする姿勢を見せるようになりました。

そして献帝の皇后と子供を殺害し、自分の娘を皇后にします。

曹操もまた権力欲にとりつかれ、暴力をふるったのだと言えます。

そして曹操は魏王となり、皇帝の一族の身分を手に入れると、いよいよ皇位を簒奪する準備を整えますが、その直前の220年に病死しました。

しかしその年のうちに、後継者の曹丕が献帝から皇位を奪い、魏王朝を建国しています。

こうして後漢の皇帝は、ついに完全に権力を喪失したのでした。

宦官=悪ではない

これまで見てきた通り、宦官は他の勢力との均衡がとれているうちには、皇帝や皇太后の側近として、政治を安定させるのに寄与していました。

しかしそれが崩れ、皇帝から過剰な信頼を受けるようになると、増長して後漢の統治力を損なってしまっています。

このため、曹操は「宦官が悪いのではなく、皇帝が宦官を頼りすぎたのが悪かったのだ」と論評しています。

これは義理の祖父の曹騰が宦官だったことも影響しているでしょうが、事実、曹騰は宦官として国家を支える働きをしていましたので、彼のような人物であれば、高い地位に昇っても問題はなかったのでした。

そしていくつかの事例を見るに、外戚(大将軍)の側が大きな権力を握ろうとして皇帝の地位を危うくし、これを防ぐために皇帝が宦官に権力をもたせるようになった、というのが歴史の流れであり、宦官のみが後漢が滅亡した原因になったと判断するのは、妥当とは言えないでしょう。

その後の時代では、宦官の制度が廃止されることはなく、清の時代まで継続しました。

ところで、現代でも三権分立がありますが、権力はいくつかに機能を分割し、均衡を保つように努めないとやがて腐敗し、国家の崩壊につながっていくようです。