妻女山を自ら降りる
別働隊が動き始める前日、謙信は海津城から上がる炊煙がいつもよりも多いことから、武田軍が動くことを察知します。
謙信は夜の闇にまぎれてひそかに妻女山を下り、千曲川の対岸にある八幡原へと移動しました。
渡河地点には千人ほどの押さえの部隊を残し、別働隊の進撃を遅らせる措置をとっています。
このことからみて、謙信は信玄が取った作戦案を、完全に読み切っていたようです。
もしも信玄の立場であれば、妻女山にこもる自軍に対し、どのような作戦案を取ってくるかを想像し、的確に予測していたことになります。
恐るべき軍才だと言えるでしょう。
こうして謙信は、1万2千となった軍勢を率いて八幡原を進みます。
その先には、信玄が8千の兵を率いて布陣していました。
先に述べた通り、謙信が別働隊によって、妻女山から追い出されてやってくるのを待ち受けていたのです。
しかし謙信は追い出されることなく、自ら山を降り、信玄の本隊へと向かって行きました。
こうして、8千対1万2千の、謙信有利な情勢でが行われることになりました。
信玄は、1.5倍の敵に襲撃される失策を犯してしまったことになります。
八幡原の戦い
この日は早朝から深い霧が出ていましたが、午前8時頃、その霧が晴れました。
見晴らしがよくなった八幡原では、信玄が率いる本隊の前に、いないはずの謙信の軍が、整然と布陣していました。
そして謙信は配下の猛将・柿崎景家を先鋒とし、武田軍への攻撃を開始します。
この時に謙信は、「車懸りの陣」という陣形を用いたと言われています。
これは先鋒の軍を次々に入れ替え、敵軍に休みなく強力な波状攻撃をしかける戦法です。
上杉軍の方が数で上回っていましたので、これが有効に働き、武田軍は切り崩されていきます。
信玄は包囲陣形である鶴翼の陣をしいて応戦しましたが、数でも勢いでも劣る武田軍は、上杉軍を止められません。
この結果、副将である弟の武田信繁や、作戦を立案した山本勘助などの武将が相次いで戦死してしまいました。
山本勘助は作戦の失敗の責任を感じ、敵中に突撃をかけ、13騎を自ら倒した末に討ち取られたと言われています。
こうして側近を失った信玄の本陣が手薄になりました。
この機をとらえて謙信自らが本陣に乗り込み、信玄と生身で直接対峙した、という伝説があります。
謙信が馬上から太刀で切りかかり、信玄が手にしていた軍配でこれを受けた、と言われています。
真偽は定かではありませんが、そういった伝説が生まれるほどに、信玄はこの戦いで追い詰められていました。
しかし、ここを耐えなければ策が完全に失敗してしまいますので、多大な損害を出しながらも、粘り強く戦い続けます。
別働隊の参戦
本隊が崩壊の危機に陥っていたころ、馬場信房と高坂昌信が率いる別働隊は、妻女山がもぬけの殻であると気づき、急ぎ八幡原へと向かいました。
そして謙信が押さえに残した部隊を蹴散らすと、上杉軍の背後から攻撃を開始します。
この時、信玄の本隊はかろうじて持ちこたえており、別働隊の到着によって息を吹き返しました。
これによって形成は逆転し、上杉軍は武田軍から包囲される状況になりました。
ここに至り、ようやく信玄が採用した策が機能したことになります。
謙信の側からすると、分散して少数になっていた武田本隊を撃破できず、あと一歩攻めきれなかったことになります。
不利を悟った謙信は、後方基地である善光寺に向けて撤退を開始します。
武田軍はこれに追撃をかけ、信玄の本陣に攻め込むほど深入りしていた上杉軍に、少なからぬ損害を与えました。
こうして川中島の戦いは、前半は上杉軍が優位に戦いを進め、後半に武田軍が逆転した、という流れになりました。
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