前田利常 あえて鼻毛を伸ばし、加賀百万石を保たんとす

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前田利常としつねは、加賀百万石を築いた前田利家の四男として誕生した人物です。

前田家は兄の利長としながが継いでいたのですが、利長は正室とも側室との間にも、男子を得ることができませんでした。

このために利常が年の離れた兄の養子となり、1605年に、11才で前田家の家督を継承しています。

この当時、前田家以上に領地を持っているのは徳川家しかなく、日本第2位の領主の地位を得たことになります。

そのゆえ、晴れがましい立場についたようにも思えますが、実際には、利常の生涯は気苦労がたえないものでした。

というのも、もしも前田家が徳川家に対して反乱を起こせば、それに応じて徳川家に不満を持つ者たちが立ち上がり、天下に大乱が発生する可能性があったからです。

このため、利常はいつも幕府から警戒されており、片時も油断できぬ生涯を送ることになりました。

前田利常

【前田利常の肖像画】

家康の告白

1616年、徳川家康が死の床についた際に、利常もその枕元に駆けつけて見舞ったのですが、その際に家康から、驚くべき事を告げられました。

「実はな、徳川の世を安泰にするため、わしはそなたを殺すようにと、秀忠ひでただ(二代将軍)に申し出ていたのだ。しかし秀忠はこれを受け入れず、何の措置もとらずにそなたを生かした。ゆえにわしには感謝しなくてもよいが、秀忠の恩は忘れるでないぞ」というのが、家康が利常に語ったことでした。

この時には既に、かつて天下を支配した豊臣家が滅ぼされており、家康にとって気がかりな存在として残っているのは、前田家のみでした。ゆえに、これを滅ぼすために利常を殺してしまおうと企んでいた、ということになります。

この話は、事実かどうかは定かではないところもあるのですが、当時の情勢からして、本当の話だったとしてもおかしくありません。

内部の問題

それ以外にも、利常は前田家の内部でも軋轢を抱えていました。

利常には、利長の他にも二人の兄がおり、彼らはいずれも利家の正室・まつの子どもでした。

それを差し置いて、妾腹の子である利常が前田家の当主になったわけで、当然のことながら、家中では利常に対する反発が大きくなり、これを抑えるのにも、ずいぶんと気をつかわなければなりませんでした。

このような、外からも内からも圧力を受ける立場にありましたが、利常は生涯を通して、当主の役割を立派に果たしています。

なお、利常が当主に選ばれたのは、容貌が父・利家によく似ており、兄たちより才覚も気概も、はるかに秀でていたからだと言われています。

しかし、家康にとって利家は、天下人の地位を狙った際に立ち塞がった強敵でしたので、その利家に似ていることが、警戒心を強める作用をもたらしたのだとも言えます。

【父・利家の肖像画】

鼻毛を伸ばし始める

さて、そのような環境で利常は生きていたわけですが、ある時から急に鼻毛を伸ばすようになりました。

やがては伸びすぎて鼻から飛び出すようになり、大変に見苦しい姿となります。

このため、家老の本多安房守あわのかみが、鏡を土産として利常に贈り、側に仕えている家臣たちに、それとなく鼻毛のことを気づかせるようにと促しました。

それでも利常は知らぬ顔をしているので、やがてもうひとりの家老・横山左衛門ざえもんが、利常の私室の掃除係に命じて、鼻毛抜きを捧げさせました。

これらの様子を見て、利常は「一度みなに説明しておかねばなるまい」と思い、家老たちを呼び出し、どうして自分が鼻毛を伸ばしているのかを語ります。

「そなたたちは、わしの鼻毛が伸びているのを見て、笑止に思って色々と動いているようだな。わしとて、鼻毛を伸ばしたままにしている者が、うつけ者として馬鹿にされることくらいは知っておる。それでもあえて鼻毛を伸ばしているわけを、説明しておこう」と利常は切り出しました。

家老たちは「お願いいたします」と答えます。

「この利常は120万石もの領地を持つ大大名で、大きな力を持っておる。それゆえに利口を鼻の先に現すと、よからぬことを企んで、世を乱すのではないかと幕府から警戒されることになろう。それゆえにあえて鼻毛を伸ばし、わしはうつけ者だと人々に知らせることで、疑われるのを防いでいるのだ。よもや鼻毛を伸ばしているような間抜けが、天下を乱すような、だいそれた悪だくみをするとは誰も思うまい。だからわしは鼻毛を伸ばすことで前田家を守り、家臣たちが安心して暮らせるようにしているのだ」と告げました。

「鼻毛を伸ばすことに、そのような深いお考えがあったとは・・・」と家老たちは感嘆しましたが、もっと他に方法はないのだろうか、とも思ったそうです。

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