火事にあっても武具を補充せず
それ以外にも利常の逸話は数多く伝わっているのですが、ある日、江戸の前田家の屋敷が火事で焼失したことがありました。
この時に、家老たちが武具を国元から運んで補充しましょう、と進言するのですが、利常はこれを退けました。
そして「万が一、変事が発生した際には、幕府から武具を借用すればいい」と述べ、しばらくそのままにしています。
これは国元から武器を運ばせることで、「前田家は江戸に武器を集めているようだが、もしや謀反を起こそうと企んでいるのではないか?」と幕府から疑われるのを避けるための措置でした。
このようにして利常は、幕府に前田家取り潰しの口実を与えないようにと、たゆむことなく気を配り続けていたのです。
家臣たちに気づかいをする
このようにして、利常には破天荒なところと、細やかな気遣いができるところが備わっていました。
その配慮の精神は幕府に対してだけでなく、家臣たちにも向けられています。
ある日、利常は能楽を見物しましたが、この時に家臣たちにも同席を許しました。
しかし当時の儀礼として、主君よりも頭を高くするわけにはいきませんので、同席した家臣たちはみな、手を床についてかがみながら、頭だけを持ち上げて見物します。
これでは首が疲れますし、見づらいわけで、それに気がついた利常は、畳をたくさん運び、自分の席のところに積み上げるようにと命じました。
そうして利常が高いところに登れば、家臣たちが背筋を伸ばして顔を上げても、利常の頭はもっと高いところにありますので、頭が高い、と注意される心配がなくなったのです。
こうした利常の気配りによって、家臣たちは手をつくのをやめ、楽な姿勢で能を見物できたのでした。
名君として名を残す
このような、利常の様々な配慮と努力のかいあって、前田家は幕府から取り潰されることもなく、家中の反発によって内部崩壊することもなく、順調に発展を遂げていきました。
利常は経済政策にも通じており、「領内の武士も民も、みな領内で作られた服や道具のみを購入して使用せよ。他国の産物を用いることは厳禁とする」というお触れを出しています。
そうして地元に市場を作りつつ、他国にお金が流れないようにしたのです。その上で藩が運営する細工所を設けて支援し、領内の職人たちの技術を向上させていきました。
現代風に言えば、保護貿易政策を実施し、地場産業の発展を促したのだということになります。
この結果、金沢を中心として、前田領では工芸や織物が発達して行きました。
金沢は、現代でも伝統的な工芸品や、加賀友禅などの染め物などが有名ですが、その基盤を作ったのが利常だったのです。
産業を育成して技術が高まれば、今度は製品を他国に高く売ることも可能になるわけで、この政策によって、前田家の経済力はおおいに高まっていきました。
そして利常は治水や農政にも力を注いで、農作物の収穫高を増やすことにも成功します。
この結果、「加賀の政治は日本一」と呼ばれるほどの評判を得ることになりました。
こういった事跡によって、利常は名君として名を残すことになります。
微妙公
利常は後世から「微妙公」という、変わった印象を受ける号で呼ばれています。
これはその戒名が「微妙院殿一峯克巌大居士」というものだったからでした。
この場合の微妙とは、現代とはニュアンスが異なっていて、「趣が深く、簡単には理解できない不思議な美しさ、素晴らしさを備えている」という意味です。
利常は、時に鼻毛を伸ばし出すような素っ頓狂なところがありましたが、一方では家臣への思いやりが深く、政治家としては優れた手腕を備えていました。
そのような妙味を持つ人柄であったことから、微妙という言葉が贈り名としてふさわしい、と考えられたのでしょう。
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