畿内の武将たちを指揮する立場になる
光秀個人の領地は34万石でしたが、それ以外にも丹後の細川藤孝や大和(奈良)の筒井順慶など、畿内に領地を持つ信長配下の諸将たちへの指揮権を与えられており、総計240万石の軍事力を預かる身となっていました。
信長の本拠が近江の安土城でしたので、その側で大軍を預けられるほどに信頼されていたことになります。
実質的に、信長の身辺を守る近衛兵団長の地位についていた、と言ってもよいでしょう。
そして1581年には、京都御馬揃えという、正親町天皇に織田軍団を披露する大規模な観兵式の取り仕切りを任されました。
この任を無事に果たした後、翌1582年の春に武田討伐に参加していますが、この時は主力ではなく、討伐の進行具合を見届けるだけで終わりました。
この年の5月には、信長から饗応の返礼を受けるために上洛をしてきた、徳川家康の接待役に任じられます。
こうして並べてみると、丹波攻略以後、光秀は大規模な軍事作戦から外されており、武将の果たすべき仕事はさせてもらえていませんでした。
この頃の信長の軍団は、関東に滝川一益が、北陸に柴田勝家が、中国地方に羽柴秀吉が配置されており、いずれも大きな戦功を立てる機会を与えられていました。
そして新たに四国の討伐軍が編成されることになり、手の空いていた光秀は、自分がこの役目を任されることを希望します。
しかしこれは丹羽長秀に任され、またしても光秀は軍事作戦を主導する立場につくことができませんでした。
こうした信長の措置が、光秀の心に、もしや自分の価値が信長にとって薄れているのでは? と疑念を抱かせる原因になったのかもしれません。
光秀にとって、人使いが荒いはずの信長から用いられないのは、危険な兆候でした。
というのも信長には、老臣を放逐した前例があったからです。
佐久間信盛の追放
佐久間信盛は信長の父・信秀の頃から織田家に仕えている重臣で、信長の家督相続を支持した経歴を持つ人物です。
軍の指揮能力に秀でていて、信長の主だった戦いには全て参加して戦功を上げています。
しかし、1576年から任された本願寺の攻略戦において、佐久間信盛は失態を演じてしまいます。
この時、信長から近畿東海など7ヶ国の武士団を束ねた膨大な戦力を預けられながらも、何年かけても本願寺を攻め落とせず、信長の不興を買ってしまったのです。
その結果、1580年に信長から折檻状を突きつけられ、働きの鈍さや過去の失敗について責められます。
そして領地を没収された上で追放され、紀州の熊野にまで身一つで落ち延びるはめになってしまいます。
この佐久間信盛は1528年生まれで、通説に従えば、光秀と同じ年齢でした。
そして光秀もまた、今では近畿の数ヶ国の軍勢を預けられており、佐久間信盛と類似した立場にありました。
それでいて3年ほどの間、軍事的な功績をほとんどあげていません。
このことから、光秀は自分もまた、いずれ佐久間信盛のように領地を取り上げられて追放されてしまうのでは、と疑念を抱いていた可能性があります。
信長に30年に渡って仕えた佐久間信盛ですら追放されたのですから、14年の経歴しかもたない光秀であれば、なお容易に信長から捨てられてしまうかもしれません。
丹波攻略以後は信長から軍事作戦を任せてもらえない状況が続き、日を追うごとに、光秀の心には暗い影がさしていったのではないかと思われます。
【次のページに続く▼】