明智光秀はどうして本能寺の変で織田信長を討ったのか?

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山崎の戦いで敗れ、農民に討たれる

光秀は圧倒的に劣勢な状況にありましたが、それでも軍を集め、京都の山崎の地で羽柴秀吉の軍勢を迎え撃ちます。

各地の拠点の押さえが必要なため、この時の光秀の軍勢は1万程度だったとも言われています。

精鋭部隊であった明智秀満の部隊は坂本城の守備に残すなどしており、この肝心な決戦に対する集中力を欠いていたようです。

これに対し、羽柴秀吉の側は守りに入る必要がないため、全軍をこの戦いに振り向けていました。

この結果、山崎の戦いは羽柴秀吉の圧勝に終わり、敗北した光秀は、わずかな軍勢とともに坂本城に向けて落ち延びようとします。

しかし、その途中で落ち武者狩りの農民たちに襲撃され、竹槍で刺されて重傷を負い、家臣に介錯されてその生涯を終えました。

享年は55才でした。

主だった家臣たちもほとんどが死亡しており、さながら信長と抱き合い心中をして、ともに滅んでしまったようなかっこうになりました。

羽柴秀吉の他にも、すでに柴田勝家や徳川家康も光秀討伐の軍を動員しており、もしも羽柴秀吉が急行してこなくとも、多方面からよってたかって攻撃され、やがては滅ぼされていたことに変わりはなかったでしょう。

信長はどうして裏切られたのか?

光秀側の視点から書いてきましたが、逆に信長の側から見ると、どうして彼は裏切られたのでしょうか。

それにはやはり、佐久間信盛らの追放の影響が大きかったと思われます。

長年に渡って仕え、功績も大きかった老臣の追放劇は、他の武将たちの信長への忠誠心を揺らがせたという意味で、大きな失策だったと言えるでしょう。

先に佐久間信盛について触れましたが、それ以外にも長く信長に仕えていた重臣の林秀貞など、数名の武将たちが同時期に追放されています。

一番初めに光秀が行動しましたが、他の軍団長たちも、自分たちも働きが鈍ればいずれ信長に領地を没収され、追放されてしまうのではないかと恐れていたことでしょう。

それならばいっそその前に、と考える者が出てきてもおかしくはなく、信長にはそういった配下の者たちの感情に対する配慮が欠けていたようです。

信長は生まれながらの大名で、誰にも従った経験がありませんでしたので、仕える立場の人間が考えることについて、想像する能力が不足していたのかもしれません。

そのことが、信長が天下人になるのを妨げてしまいました。

一方で、光秀は長く低い身分に置かれ、苦労を重ねただけのことはあってか、部下の者をいたわり、統率する力には秀でていました。

領地でも善政を行い、内政能力にも優れていたらしく、今でも丹波亀山の地では光秀を偲ぶ人たちがいるそうです。

そのために反乱を起こすと決めても配下の武将たちがついてきてくれ、信長を討つところまでは成功できました。

しかし同時に、かつて低い身分にあっただけに、失うことを恐れる気持ちもまた強かったのかも知れず、それが自爆とも言える信長殺害の行動へとつながってしまったのかもしれません。