毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?

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元就はどうして勝利できたのか?

ここまで見てきたとおり、勝因を占める大きな要素は、元就の卓越した作戦能力にあったと言えるでしょう。

大軍であっても奇襲を受け、包囲されれば脆いものであり、そうした原理をいかんなく活用したことで、少数の毛利軍に勝利をもたらしました。

また、元就の次男の吉川元春と、三男の小早川隆景が、それぞれに自分の判断で独自の行動が取れる優れた武将であったことが、戦況を有利に導く上で大いに貢献しました。

優れた武将が元就ひとりではなかったのが毛利氏にとっての最大の強みであり、この後に勢力を拡大し、維持していく上でも機能することになります。

また、出陣の直前に村上水軍の協力を得られたのも大きく、彼らの働きによって陶水軍を壊滅させることができ、晴賢を島から逃さずにすみました。

このような複合的な要因が合わさったことにより、元就は大勝利を得ることができたのです。

陶晴賢はどうして敗れたのか?

戦いの全体を見ると、個々の武将の勇気や戦いぶりでは毛利軍にさほど劣っていないのですが、主将である晴賢の作戦能力の差によって敗れた、というのが結論になるでしょう。

狭い島に大軍を送り込み、柔軟な指揮が行いにくい状態を作ってしまったこと、毛利氏の上陸作戦に対する警戒が足らず、奇襲の成功を許してしまったこと、などが主な敗因として上げられます。

弘中隆包の意見に耳を傾けていれば、このような敗北を喫することはなかったでしょうし、晴賢は勇敢ではあったものの、慎重さに欠けた武将だった、と言えると思います。

陶軍少数説

なお、この戦いにおいて、陶軍は実際には8千程度の軍勢だった、という説もあります。

この頃の大内氏の勢力は、晴賢の謀反の影響で盤石ではなく、重臣の多くが出陣していなかった、というのがその根拠です。

陶軍は4700人が死去しており、3000人が捕虜になっていますので、数の計算は合っています。

後に毛利氏が大いに発展したため、元就の戦勝をより強く印象づけるため、陶軍の数が過大に伝えられている可能性はあるかもしれません。

しかしこの説が事実だったとしても、8千対4千という倍の戦力差で勝利し、その後で大内氏の領地を奪取して滅ぼしていることに変わりはなく、この戦いが毛利氏の躍進の、大きなきっかけになったことは確かです。