毛利元就はどうして厳島の戦いで陶晴賢(隆房)に勝利できたのか?

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来島村上氏と婚姻を結ぶ

この頃の瀬戸内海はいくつかの水軍衆によって支配されており、元就はその中の来島(くるしま)村上氏との間に婚姻を結びます。

毛利氏の一族の宍戸隆家の娘を、三男の隆景の養女にし、当主の来島通康に嫁がせました。

こうして村上水軍との関係を強化しますが、このことが厳島の戦いにおいて重要な意味を持つことになります。

外交戦

元就は北九州の大友義鎮と連絡を取って中立を保つ約束を得たり、肥前(佐賀県)の大名・少弐冬尚(しょうに ふゆひさ)に書状を送って挙兵を促し、西から晴賢の領地を圧迫させる、といった措置も行っています。

一方で晴賢は元就を倒すため、大内氏の仇敵とも言える尼子氏との連携を模索し、東から元就の領地を攻めさせようとします。

元就はこれに対し、備中の三村氏を支援して尼子氏への攻撃を行わせることで、安芸方面への参戦を防ぎました。

このように、周辺の諸勢力を巻き込みつつ、両者の対決の機運が高まっていきます。

晴賢は1554年の9月ごろに、ようやく吉見正頼との和睦を成立させ、元就との対決の準備を進めていきました。

厳島の戦いの始まり

1555年になると、晴賢は本格的に元就討伐に乗り出します。

周防・長門・豊前・筑前(大分県)などの兵を集め、2万という大軍を編成しました。

そして500艘の船団で出向し、海路で厳島へと向かいます。

晴賢はこれ以前にも何度か厳島を家臣たちに攻めさせていたものの、いずれも撃退されていました。

このために大軍をもって一気に攻め落とし、毛利軍の前線基地を奪ってしまおうと考えたようです。

この時に重臣の三浦房清が厳島の攻略を強く勧めており、晴賢はこれを容れて厳島への渡海を決断しました。

一方でもう一人の重臣・弘中隆包(ひろなか たかかね)は狭い島に大軍を送って、そこを毛利軍に襲撃されれば不利になると懸念し、攻撃を取りやめた方がよいと進言しましたが、晴賢が取り合うことはありませんでした。

このため、弘中隆包は出陣前に遺書を書いて夫人に渡していたと言われています。

おそらく隆包は元就の戦術能力を熟知しており、大軍に頼って不利な戦場に赴くことの危険性を、よく理解していたのでしょう。

晴賢は厳島に軍勢を上陸させると、尾根伝いに陸路で宮尾城に迫り、これを包囲しました。

そして城の水源を断つことで降伏させようとします。

城を守る兵はわずか500で、圧倒的な戦力差があったため、数日で宮尾城は陥落の危機に晒されました。

元就の出陣と、村上氏の援軍

元就は晴賢が厳島に上陸したと知ると、4千の軍勢を動員して水軍の拠点である草津城に入ります。

そして隆景を通じ、先に婚姻を結んだ来島村上氏に援軍を要請しました。

この交渉はなかなかまとまらず、宮尾城が陥落しそうになったため、元就はやむなく毛利・小早川水軍のみでの出陣を決意し、厳島へと向かうことにします。

しかしちょうどその日に村上水軍は毛利氏への援軍派遣を決定し、300艘の船団を率いて参戦して来ました。

港に近づいてくる村上水軍の姿を見て、元就は安堵したことでしょう。

こうして元就は強力な味方を得ることに成功し、厳島で孤軍となっている晴賢を討つための、絶好の機会を活かすことができるようになりました。

部隊を3つに分けて進軍する

この時に元就は部隊を3つに分けています。

元就と隆元、吉川元春が率いる本隊は、厳島の東側からの上陸を目指します。

小早川隆景が率いる別働隊は西に回り込み、晴賢の軍勢を本隊とともに挟み撃ちにすることを目指します。

援軍にやってきた村上水軍は、別働隊と共に西に回り、晴賢の水軍との戦いを担当し、これを殲滅して晴賢を島から逃さないことを目指します。

この布陣から、元就が厳島に上陸した晴賢軍を殲滅し、晴賢自身も討ち取ってしまうことをもくろんでいたのがわかります。

敵よりもはるかに戦力が少ないのに、敵の全滅を目指すとは、なんとも大胆不敵な作戦であると言えます。

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