長野業正 武田信玄に勝利し、真田幸隆と親交を持った武将の生涯

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信濃への侵攻に反対する

1547年になると、信玄が砥石城で敗北したことが上野に伝わり、信濃に侵攻して信玄を打ち負かそう、とする計画が上杉氏の当主・憲政のりまさから持ち出されます。

諸将はこれに賛同しますが、業正はひとり反対し、次のように意見を述べます。

「北条氏康うじやすは武略に優れ、数度の合戦に勝利した結果、関東では彼の勢力が日ごとに増している。一方、当家はそれとは逆に、日に日に衰退してしまっている。このような状況下では諸将が力を尽くし、北条に攻め潰されないようにと努めなければならない。それなのに、武田に戦をしかけて敵を増やそうとするなど、皆が狐にでもとりつかれ、錯乱してしまったとしか思えぬ」と痛烈に批判しました。

そして「戦えば信玄が勝利し、ここにいる上杉の家臣たちも、やがて信玄に従うようになるだろう」と予言しました。

業正は「それでも自分は信玄には従わぬぞ」と宣言をすると、席を立って箕輪に戻りました。

残された上野の諸将は「業正がいなくとも戦はできる」と豪語し、2万の大軍を集めて碓氷峠を越え、信濃に侵攻しました。

しかし業正の予想通り、信玄と戦って大敗を喫し、傾きかけていた上杉氏の勢力は、さらに衰えることになります。

上杉憲政が上野を追われ、業正はしばし独立勢力となる

1552年になると、業正は諫言を聞き入れず、悪臣を重用する上杉憲政に愛想を尽かし、西上野の諸将とともに離反しました。

憲政は能力がなく、人望も乏しい人物で、側近たちにも離反されて居場所がなくなると、越後の長尾景虎かげとら(後の上杉謙信)を頼って越後に落ち延びます。

この結果、上野は主がいなくなり、業正はしばし、独立勢力として割拠することになりました。

業正はその人望によって、西上野を代表する存在となり、やがて侵攻してきた武田信玄と戦うことになります。

信玄との戦い

1550年代に、信玄と謙信は信濃の川中島で何度も戦いましたが、どちらも決定的な勝利を収めることはできず、やがて衝突することはなくなっていきました。

そして1560年になると、謙信が越中(富山県)に出陣した隙をつき、信玄は矛先を変え、上野に侵攻します。

武田信玄

【業正と戦った武田信玄】

業正は既に69才になっていましたが、箕輪城に立て籠もり、信玄の軍勢を迎え撃ちました。

箕輪城の守りは堅く、信玄の攻撃を防ぐことに成功します。

そして業正は、夜襲や朝駆けといった奇襲戦法を駆使して武田軍を苦しめ、数百の敵兵を討ち取り、信玄を撤退させました。

業正は6度に渡って信玄と戦い、全て勝利したという話もあるのですが、信玄が上野に侵攻を開始したのは、業正の死の前年であり、これは尾ひれのついた伝説の類いであるようです。

しかしながら、信玄の侵攻を一度は防いだことから「業正は信玄にも勝利した、優れた武将である」という評価を得ることになりました。

謙信に従い、北条氏康と戦う

信玄の侵攻を受けたのと同じ年、謙信は関東に討ち入り、業正はこれに従って北条氏と戦っています。

謙信は上杉憲政から家督を譲られており、室町幕府からも管領並という厚遇を受けていました。

そして、その資格をもって上杉氏の領地を取り戻そうとしたのです。

謙信の実力は圧倒的で、業正の支援を受けながら、北条氏康に従っていた名胡桃なぐるみ、沼田、厩橋うまやばしなどの諸城を攻め落とし、上野を支配下に置きました。

さらに翌1561年には、上野から武蔵へと進軍し、各地の城を攻略した後、鎌倉を攻め落とします。

鎌倉はかつて幕府があった土地で、室町幕府も関東の政庁を設置するなど、政治的に重要な意味を持つ土地でした。

この地を占拠したことで謙信の威光が強まり、関東の諸将が従うようになります。

この結果、10万という大軍が編成され、謙信は北条氏の本拠である小田原城を包囲し、氏康を攻め滅ぼそうとしました。

しかし信玄が北信濃で軍勢を動かし、謙信を牽制します。

信玄は氏康と同盟を結んでいましたし、謙信の勢力が強まり過ぎると自身も不利になりますので、妨害工作をしかけたのです。

さらに包囲が一ヶ月以上も続くと、「これ以上、小田原に留まるのは難しい」と主張する武将が増えたことから、謙信は攻略を断念して撤退しました。

業正もこれに伴って上野に撤退しますが、すでに70才になっていた業正の目に、謙信の勇姿はまぶしく焼き付いたことでしょう。

業正は、長男の吉業よしなりを氏康に討ち取られていましたので、謙信が氏康を苦しめたことを、痛快に感じたと思われます。

こうして復権してきた上杉氏に協力したことから、業正は上杉氏に忠誠を尽くした人物だと言われているのですが、憲政の追放に加担していますので、実態とは異なった評価のようです。

とはいえ、上杉寄りの心情を抱いており、北条や武田に従うことをよしとしていなかったのは確かでしょう。

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