長野業正 武田信玄に勝利し、真田幸隆と親交を持った武将の生涯

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病の床で、真田幸隆と再会する

こうして謙信の関東遠征が終わると、業正は病に倒れ、床に伏すことが多くなりました。

業正はすでに70才を超えており、この時代ではかなりの長命でしたが、ついにその寿命が尽きる時が来たのです。

病は日に日に重くなり、人と会う機会も少なくなっていきました。

しかしある日、真田幸隆が密かに訪ねてきたこと知ると、対面して古今のことを様々に語り合いました。

そして業正は「かつてそなたが上野にいた時、献策を用いる者がおらず、上杉氏は衰退を続け、ついには全ての領国を失うに至った。謙信の手によって情勢は変わったが、この上野もまた、いずれは誰かに奪われてしまう可能性が高い。この業正も70になり、余命はいくばくもない。誰とも知らぬ者に渡すより、気心を知っているそなたに渡すことが、憂いの中の喜びだ」と幸隆に伝えます。

「しかし、ここ箕輪の南は争いが激しく、守るのに難しい土地だ。一方で、北にある利根郡は四方を山に囲まれて守りやすく、川沿いには良田があって豊かな土地だ。ここを攻め取って、信濃の領地と合わせて支配されるがよい」と勧めました。

幸隆は「その利根郡はいま、どなたが支配しているのですか?」とたずねます。

すると業正は声を潜め「それがしの娘の夫、沼田景康かげやすと申す者だ。最近は筋の悪い女に入れあげ、生まれた男子を寵愛しているのだそうだ。そしてわしの孫を幽閉し、その女との間に生まれた子に家督を継がせようとしている。そんなことでは沼田家が滅びるのも遠いことではあるまい。わし自ら利根郡を奪い取ってくれようとも思ったが、この年ではそれも難しい。なのでそなたに譲ろう」と述べ、沼田から城を奪うようにと重ねて薦めました。

幸隆の能力を評価する一方、自分の娘と孫を大事にしない婿に憤り、攻め滅ぼしてしまって欲しい、という気持ちも業正にはあったのでしょう。

幸隆は業正に「よいことを教えていただいた」と礼を言い、「久しく疎遠だったことを責めず、かえって重要な話を託していただき、そのお心の広さには感嘆するばかりです。では、これより沼田を奪取するための策を練るとしましょう」とも述べました。

後に幸隆の子・昌幸まさゆきが沼田を奪い取りますが、これは業正の話を聞いて、幸隆が仕込みをしていたために成功したのだと言われています。

(これは「名将言行録」という江戸時代の書物に書かれている話で、史実かはどうかは定かではないところがあります。この時期、幸隆が仕える武田氏と長野氏は戦闘状態にあり、業正の元を訪問するのは難しいからです。しかし当時の上野の情勢を知る上で興味深い逸話でしたので、掲載しました)

遺言

業正はやがて死去しますが、その間際に後継者の業盛なりもりを呼び寄せ、次のように遺言をしました。

「わしが死んだら、その墓はなるべく小さく作れ。そして仏事を行う必要はない。それよりも軍事に力を注ぎ、敵の首をとり、一つでも多く我が墓に供えよ。敵に降伏はするな。最後まで戦い抜き、潔く討ち死にせよ」というのがその内容でした。

これを言い残してから間もなく、業正は死去しています。

この遺言から察するに、業正の真の望みは、上野がよそ者に支配されない、強固な国になることだったのかもしれません。

そして長野氏の当主となった業盛は、父の遺言通りに上野を狙って侵攻を続ける信玄と戦い、一度は撃退しています。

しかし1566年になると、信玄は自ら2万の大軍を率いて攻め込んで来ました。

業盛は箕輪衆を率いて徹底抗戦しますが、ついに防ぎきることができず、敗北します。

そして城内にある持仏堂で業正の位牌を拝みつつ、一族郎党とともに自害し、長野氏は滅亡しました。

業盛はこの時、まだ23才でした。

その後の長野氏

業盛には業親なりちかという弟がいて、その子の業実なりざね(業正の孫)が城を落ち延びて生き延びました。

そして、後に箕輪城主となった徳川家康の重臣・井伊直政に仕えています。

業実は4千石を与えられ、直政の移封に伴って彦根藩士になりました。

やがては井伊氏の家老に就任しており、長野氏は彦根藩の重臣として存続することになっています。