信長と仏教勢力
ところで、信長には実際に、第六天魔王を名のりかねないところもありました。
延暦寺の焼き打ちもそうですが、他に浄土真宗の本願寺や、真言宗の高野山とも敵対しており、軍勢を派遣して戦火を交えています。
では信長は仏教そのものを嫌っていたのかというと、そうではありません。
当時の仏教は、その宗派の規模が大きければ大きいほど、それに比例して多くの領地や軍勢をも保有しており、一個の武装勢力でもあったのです。
特に朝廷の有力者から信仰を受けていた一部の寺院は、数十万石にもおよぶ荘園を寄進されており、戦国の世においては、大名と変わらないほどの実力を蓄えていることもありました。
本願寺の場合は、北陸や大阪・紀州など各地の村落を信仰によって支配下に置き、これを束ねて民兵組織を形成しており、それが軍事力の根源になっています。
このため、本願寺が信長に敵対するや、数万の軍勢が動員され、信長が苦しめられることになったのです。
本願寺は信徒たちに、「戦って死ねば浄土(死後の安楽な世界)に行ける」と教え込み、死を恐れぬ戦士に変えていきました。
このような事情が背景にあり、信長は敵対した武装勢力と戦っていたのであって、仏教という宗教そのものと敵対していたわけではありませんでした。
例えば信長は教育係だった平手政秀が自害した後、彼を弔うために政秀寺を建立していますし、沢彦という禅僧を学問の師にしており、仏教と平穏な関わりも持っています。
その一方で、仏教は殺生を禁じているのに、兵力を蓄えて権力争いに関与するとは何事かと、正義感が強く純真なところがある信長は、憤る気持ちを持っていました。
このために信長は、いわゆる生臭坊主に対しては厳しい態度を取り、真面目に修行に励む僧のことは認める、という対応をしています。
宗教の弾圧というと物騒な印象を受けますが、戦国時代には仏教の教団の側にも特殊な事情があり、それをふまえていないと、信長の行動の意図はわからなくなってしまいがちです。