廖化は蜀に仕えた将軍です。
蜀の建国以前から関羽や劉備に仕えており、彼らの死後は、諸葛亮や姜維の元で戦いました。
長く活躍し続け、やがて右車騎将軍となり、蜀軍の重鎮にまで立身しています。
70才を超えて現役であり続け、最後には、蜀の終焉までもを見届けることになりました。
この文章では、そんな廖化について書いています。
襄陽に生まれる
廖化は字を元倹といい、荊州の襄陽郡の出身でした。
元の名前は廖淳といいます。
荊州が劉備の領土だった頃から仕えており、総督を務めていた関羽の主簿(側近)になっています。
しかし219年になると、関羽が敗死してしまったので、やむなく呉に身を委ねました。
【廖化の塑像】
劉備の元に戻る
廖化は呉に安住することをよしとせず、劉備の元に戻りたいと思い、自分が死んだという噂を流します。
やがて人々が、これを本当だと思い込むほどに噂が浸透したので、廖化は老母を連れ、昼夜兼行で西方へと向かいました。
するとちょうどその時、劉備が関羽の仇を討ち、荊州を奪還するために進軍を開始していました。
このため、廖化は劉備が拠点としていた秭帰で会うことができました。
劉備は廖化の帰還を大変に喜び、宜都太守に任命します。
このようにして、廖化は劉備への厚い忠誠心を持っていたのでした。
立身する
やがて劉備が亡くなると、廖化は茂才に推挙されて丞相参軍となり、諸葛亮の元で働くようになります。
後に督広武となり、昇進を重ね、最終的には右車騎将軍・仮節にまで立身しました。
車騎将軍は軍の第三位の地位でしたが、これを左車騎将軍の張翼と分け合って、蜀軍の重鎮の地位にまで登りつめています。
この時に人々から、「先に王平、句扶あり、後に張翼、廖化あり」と言われ、蜀の末期において、軍を代表する人物の一人になりました。
そして并州刺史を兼任し、中郷候という爵位も与えられています。
果敢で激しい人物として知られており、猛将の部類だったようです。
廖化の活躍
この過程において、廖化は次のような手柄を立てています。
239年に、陰平太守だった廖化は、魏の守善羌太守・宕蕈の陣営を攻撃しました。
すると魏の雍州刺史・郭淮は王贇と游奕の二将を派遣し、廖化を討とうとします。
郭淮は曹叡(魏の三代皇帝)に上奏し、軍を二手に分け、東西から廖化を攻撃させようとしていることを報告しました。
すると曹叡は「軍を配置する際には、むやみに分離してはならない」と返書を送り、これをやめさせようとします。
しかしこの命令が届く前に、廖化はまず游奕を撃破し、ついで王贇を討ち取り、各個撃破に成功します。
このようにして、廖化は魏の戦いで活躍していたのでした。
その後は蜀軍の主導権を握った姜維の元で働き、たびたび別動隊を率いて魏軍と対峙しています。
諸葛瞻への挨拶を考える
260年ごろになると、諸葛亮の子・諸葛瞻が宮中の諸事を取り仕切るようになります。
すると廖化は同年代で、鎮国大将軍の地位にあった宗預を訪れ、一緒に諸葛瞻に挨拶に行こうと誘いました。
すると宗預は「われわれは70才を超え、すでに身に過ぎた厚遇を受けている。
足りていないのは死だけだ。
年少の輩に何を求め、せせこましく訪問などしようというのか」と答え、行きませんでした。
この挿話から、廖化はこの時期には、70才を超えた老将だったことがわかります。
生年ははっきりしていませんが、190年ごろだったと推測できます。
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