姜維を批判する
姜維が率いる蜀軍は、何度か魏に勝利を収めることはあったものの、毎年のように大軍を動かしながら、領土を増やすことはできませんでした。
そして魏の将軍・鄧艾に何度か敗北し、国力が疲弊したため、姜維への批判が高まっていきます。
そのような状況下で、262年に姜維が狄道に出陣した際に、廖化は姜維について、次のように述べました。
「『むやみに戦い続ける者は、いつか必ず自分の身を焼くことになる』という。
この言葉は伯約(姜維)にあてはまる。
智謀が敵を上まわっておらず、武力でも劣っている。
これでは、あくことなく戦いをしかけても、手柄を立てられるはずがない。
『詩経』では『我より先立たず、我より後れず』(どうして自分の生まれる前か、死んだ後ではなかったのだろうか)というが、これはまさに、今の状況を指している」
この頃には、蜀の国勢の衰えが目立ち、滅亡の兆候が見えてくるようになっていました。
廖化は、存命の中では最古参の蜀臣でしたので、その終焉を目にすることに対しては、誰よりも無念の思いが強かったと思われます。
それが姜維に対する、強い批判に反映されたのでしょう。
剣閣で魏の攻勢を防ぐ
263年になると、魏は蜀の国力が衰えていることを察知しました。
このため、30万という大軍を動員し、3つに分けて部隊を動かし、蜀を滅ぼすべく侵攻してきます。
これを迎え討つも、初戦に敗北した姜維は後退し、要害の剣閣に立てこもりました。
そして魏の将軍・鐘会が率いる大軍の進攻を防ぎ、ここで足止めに成功します。
廖化もまた、この戦いに加わっていました。
鄧艾が劉禅を降伏させる
しかしこの間に、鄧艾が別の部隊を率いて剣閣を迂回していました。
そして山中の険しい道を踏破して、成都に迫ります。
これを諸葛瞻が迎え討ちますが、大敗を喫して討ち取られ、首都の防衛軍が壊滅します。
これを受け、劉禅は臣下に説得されて魏への降伏を決定したので、蜀は滅亡してしまいました。
そして廖化たちにも、魏に降伏するようにとの命令が下ります。
廖化たちは、自分たちは敗れていないのにこのような事態になったことに憤りを感じ、刀で石を斬り割って、その感情を表現しました。
翌年に死去する
その後、降伏した姜維は鐘会に気に入られ、親しくなっていきました。
すると姜維は鐘会を焚きつけて反乱を起こさせ、その後で鐘会を討って蜀を復活させようという、危険な策を立てます。
しかしこれに失敗し、鐘会とともに討ち取られてしまいました。
この時の兵乱に、廖化と同格だった張翼が巻き込まれ、死亡しています。
その他には、劉禅の後継者だった劉璿もまた殺害されており、姜維は死の間際においても、惨禍をもたらしてしまっています。
廖化はこの騒動を生き延びましたが、やがて宗預とともに、魏の首都である洛陽に移住させられることになりました。
しかしその途上で、病のために亡くなっています。
このようにして、廖化は蜀の建国から終焉までを全て見届けてから、世を去ったのでした。