大坂冬の陣
1614年に「大坂冬の陣」と呼ばれる戦いが開戦します。
この時に幸村は大坂城に籠城するのでなく、城から討って出て家康を迎え撃つようにと提案します。
大坂城の軍勢は孤軍であり、どこからも支援がやってくる可能性はありません。
ですので籠城をしていても勝ち目はなく、積極的に野戦をしかけ、相手が油断しているうちに家康を討ち取るしかない、というのが幸村の提案でした。
これが昌幸が幸村に教えた作戦案だった、と言われています。
しかし、この提案は浪人衆の支持は得られたものの、大坂城の首脳部には受け入れられず、当初の予定通りに籠城戦が行われます。
やはり無名の幸村の提案では、その成功がおぼつかないと思われてしまったのでしょう。
また、大坂城はこの時代で随一の防御力を持つ城でしたので、それを頼る気持ちも強かったと思われます。
幸村はこれにへこたれず、大坂城の唯一の弱点であった三の丸の南に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、ここで防戦を行います。
真田丸の鉄砲隊を用いた防戦は非常に効果的で、押し寄せる徳川方の軍勢の撃退に成功し、ここで初めて幸村の武名は世に知れ渡ることになります。
家康はまたしても真田か、とうんざりしたことでしょう。
これで都合3度に渡って真田氏の人間は徳川に仇なしたことになります。
こうして活躍したものの、幸村は実際の戦闘が始まるまでは大坂城の首脳部から信用されず、出城を築いたのは徳川に寝返るためではないか、などと疑われていたようです。
味方を信じることもできないようでは勝利の可能性は乏しいわけですが、幸村はそのような逆境にも置かれていました。
真田丸によって唯一の弱点がふさがり、盤石となった大坂城を、徳川方は攻めあぐねます。
そうして戦況が膠着する中で、家康は用意してきた長距離砲で、大坂城の実質的な主である淀殿の居住区を砲撃する、という作戦を取りました。
やがて淀殿の侍女に死傷者が出て、この攻撃に恐れをなした淀殿とその側近たちは家康と講和する道を選び、冬の陣は終わります。
寝返りの勧誘
冬の陣で幸村の勇名は響き渡り、家康から寝返るようにと使者が送られてきます。
幸村の叔父で、幕臣となっていた真田信伊(のぶただ)がやってきて、信濃に10万石を与えるからと説得されます。
10万石というと兄・信之の所領と同じであり、かなりの好条件でしたが、幸村はこれを断ります。
すると今度は信濃一国(40万石)をすべて与える、と条件を釣り上げてきますが、これも幸村は跳ねつけました。
幸村は「10万石なら不忠者(裏切り者)にならぬが、一国なら不忠者になるとお思いか」と言ったそうです。
実際のところ、信濃の国にはいくつも大名家があり、それらをすべて移転させた上で幸村にあてがうというのは、現実味の乏しい話です。
それほどの土地はこの時代、どこにも空いていないからです。
家康とすれば受けるならそれでよし、約束は違えて1万石でもあてがっておけばよかろう。
受けなくともそういう話があったことが伝われば、大坂方から幸村はもしかしたら裏切るかもしれぬ、と疑われて心からは信用されないだろう、と計算していたことでしょう。
また、断った幸村もそのあたりは見ぬいていたと思われます。
少しばかりの領地をもらって徳川に飼い殺されるような選択はせず、最後まで戦い抜く道を選びます。
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