関ヶ原の戦いの始まり
天下人であった豊臣秀吉が死去し、その後の勢力争いの流れから「関ヶ原の戦い」が勃発します。
幸村はこの時33才になっていました。
この年齢になって、ようやく大きな舞台で活動する機会が得られたことになります。
関ヶ原の戦いにおいて、真田家は西軍(石田三成側)と東軍(徳川家康側)、それぞれに別れて行動することになりました。
昌幸と幸村が西軍につき、信幸は東軍についています。
この時、どちらが勝ってもいいようにそのように別れたのだ、という説もありますが、信幸は家康の娘婿であり、彼が東軍につくのは自然な流れであったと言えるでしょう。
信幸は昌幸とは独立する形で3万石を領有しており、個人としての決断がしやすい立場にもありました。
徳川氏に近いところにいる信幸には、東軍が勝利するであろうことが予想できていたのだと思います。
昌幸は西軍につくことを選び、幸村もそれに従います。
真田氏は石田三成と血縁関係があり、昌幸は三成と親しい間柄でした。
一方で、徳川とはかつて領土をめぐって戦火を交えた経緯があり、徳川につくという判断を昌幸がすることはありませんでした。
西軍が不利なことはわかっていたでしょうが、自分の手でもって戦況を優位に導いてやろうと、そのように決意していたと言われています。
徳川の軍勢はこの時、総勢で7万を数えるほどの大軍でした。
そのうちのおおよそ半分を家康が率いて東海道を上り、残りの半分を秀忠が率いて中山道を上る、という進軍のしかたを選びます。
その行軍の途中で、秀忠の軍勢は昌幸の守る上田城の付近を通りかかります。
その軍中には兄・信幸の姿もありました。
第二次上田合戦
この時の戦いは「第二次上田合戦」と呼ばれています。
秀忠が率いていたのは3万8千という大軍であり、対する真田の軍勢は3千程度です。
普通に戦えばまったく勝負になりませんので、初めに降伏勧告が行われます。
信幸が使者になるなどして交渉が行われますが、これは昌幸の時間稼ぎでしかなく、はじめから彼の狙いは秀忠の行軍を遅らせることにありました。
秀忠の行軍が遅れれば遅れただけ、主力の軍団が集まる岐阜方面での決戦に間に合わなくなるわけで、それが狙いだったのです。
やがて降伏のための交渉が時間稼ぎであったことを暴露し、その上で秀忠軍を挑発して攻撃をしかけてくるように仕向けます。
徳川軍はかつて上田で少数の真田軍に敗れた屈辱の経験(第一次上田合戦)がありますので、その汚名を雪ごうという意識もあってか、挑発に乗ってしまいます。
冷静に考えれば、上田城の周囲に抑えの人数だけを置いて進軍してしまえばいいのですが、老練な昌幸の術中に、戦場での経験の乏しい秀忠はまんまとはめられてしまいました。
大軍で攻めかかるものの、昌幸は少数の兵で大軍をあしらう名人でしたので、時間を費やしてもなかなか攻め落とすことができません。
そうこうしているうちに家康から早く関ヶ原方面に向かうようにと催促の使者が到着し、秀忠軍は無為に時間を費やしただけで、上田城付近から去って行きました。
こうして昌幸の遅滞戦術は成功し、秀忠の率いる大軍は、関ヶ原での決戦に間に合いませんでした。
この時の幸村は防戦に参加し、秀忠の残した抑えの部隊に夜襲をしかけるなどの活動をしています。
しかしこの戦いで名声を得たのは見事に作戦を成功させた父であり、幸村は依然として無名のままでした。
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