大坂夏の陣
1615年には「大坂夏の陣」が発生します。
この時には既に大坂城を守る堀がなくなっていました。
講和の際に一部の堀を埋めるという条件が決まっていたのですが、徳川方はこれを勝手に拡大解釈し、大坂城の堀をすべて埋めてしまいました。
真田丸もこの時に破却されています。
大坂城はこれにより、城塞としての防御力を失ってしまったわけで、ここに至って当初に幸村が提案したとおり、野外で決戦を行う他に手段がなくなりました。
しかし先の提案は、家康が大坂の軍勢は城に籠るだろうと予想している中で奇襲するからこそ効果があるのであって、はじめから野戦になるとわかっていては効果を発揮しません。
言わば家康に引きずり出される形で、大坂方は野外で戦うことを強いられます。
この時の戦力は豊臣が5万、徳川が15万であったと言われています。
3倍の戦力差があり、野戦で正面から戦えば、豊臣方に勝利の可能性はありません。
わずかに可能性を見出すとすれば、家康の本隊に強襲をしかけてその首を獲ってしまうしかありません。
序盤の戦いで後藤又兵衛や木村重成などの有力な武将を失い、大坂方はすでに疲弊していました。
この状況を挽回するため、幸村や明石全登、毛利勝永らの諸将は最後の作戦を立案し、全軍の士気を高めるために総大将である豊臣秀頼の出陣を要請します。
しかし秀頼の出陣が実現することはありませんでした。
豊臣氏の譜代の家臣たちや、母である淀殿が反対したからだと言われています。
ここまで追いつめられながらも総大将が戦場に一度も出ないで終わる戦争、というのもなかなかないでしょう。
この時の作戦は、徳川方の軍勢を狭い丘陵地に引きつけ、誘い出された敵を順次撃破していく。
そして敵の陣形が伸びきったところで別働隊の明石全登隊が家康本陣に突入し、家康を討つ、というものでした。
実際に戦闘が始まると作戦通りにことは進まず、毛利勝永が早めに攻撃をしかけてしまいます。
毛利勝永は徳川方の先鋒である本多忠朝隊を壊滅させ、忠朝を討ち取ります。
さらに救援に駆けつけた小笠原勢をも撃ち破り、緒戦は豊臣方優位に状況が進みます。
これが最後の機会と奮い立っていただけに、序盤は豊臣方の兵の士気が勝っていたのでしょう。
さらに毛利勝永の攻撃により、徳川方の二番手、榊原・仙石・諏訪といった大名の軍勢も壊乱し、予定とは違うものの、狙い通りに家康の本陣に迫れる状況になりました。
幸村はこの時に松平忠直の部隊と交戦していましたが、これと互いにすれ違うようにして前に出て、家康本陣の方向へと進出していきます。
さらに寝返りが出たという虚報を流し、徳川方を混乱させます。
その機を利用して家康の本陣に突撃を行い、家康の身辺を守る旗本隊を恐怖に陥れます。
中には数キロに渡って逃げてしまった旗本もいたそうです。
既に関ヶ原の戦いから15年が過ぎており、精強だった徳川軍にも緩みが発生していたことがうかがい知れます。
武田信玄に三方ヶ原で敗れた時以来、一度も倒れたことがなかったという家康の馬印(武将が己の存在を誇示するために立てる印)が倒されてしまい、家康自身も馬に乗って逃げるはめになります。
一説には家康は自害を覚悟するほどまでに追い詰められた、とも言われています。
その後もいくたびか幸村は家康の陣に突撃を繰り返しますが、徳川方の必死の防戦にはばまれ、とうとう家康を討ち取るまでには至りませんでした。
時間がたつにつれて兵力の少ない豊臣方は劣勢に陥り、武将の戦死や撤退が相次ぎます。
真田隊も疲労しきってしまい、幸村は軍を四天王寺近くの安居神社に引かせます。
そして幸村は、神社の境内で傷ついた体を休めていたところを、松平忠直の部隊に発見されました。
幸村は「我が首を手柄にせよ」と敵に告げ、西尾宗次という武将に討ち取られました。
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