柴田勝家 信長の筆頭家老として活躍した猛将の生涯について

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南近江に領地を得る

信長は上洛に成功して畿内の中央部に勢力を築くと、各地の大名たちを従属させようとします。

しかし越前(福井県)の朝倉義景が信長に従わなかったので、これを征服するために攻め込みました。

この行動が先に同盟を結んでいた、北近江(滋賀県北部)の浅井長政の裏切りを招くことになります。

同盟を結ぶ際に、信長が朝倉義景を攻撃する場合には、浅井長政に事前に相談をすると約束していました。

しかし信長がこれを破って無断で朝倉義景に攻めかかったため、長政は同盟を打ち切って敵に回ってしまったのです。

さらに上洛戦の際に蹴散らした六角義治が、南近江でゲリラ戦を展開して交通を遮断するようになり、これを防ぐため、信長は近江に重臣たちを配置してその防衛に当たらせました。

この時に勝家は南近江の長光寺城に配置され、その防衛を担当しつつ、各地で頻発する戦いに参加していくことになります。

瓶割り柴田

長光寺城の城主となった勝家は、摂津(大坂)に襲来した三好三人衆と戦ったり、伊勢長島の一向一揆の討伐に参加するなどしました。

その後、長光寺城の守備についていた際に、不意に攻撃してきた六角軍に城を包囲され、窮地に陥ります。

この時期の信長は各地に敵を抱えて苦闘しており、勝家の元に援軍を送る余裕がありませんでした。

そのために包囲が長引き、やがて水の備蓄が尽きそうになります。

やがて六角軍は勝家に降伏を促す使者を送ってきました。

使者は水の備蓄状況を調べることも命じられており、勝家との話が終わると、「手を洗いたいから水を使わせていただけないか」と勝家に頼みます。

すると勝家はたらいにたくさんの水を入れて持って来させ、使者に水を使わせました。

しかもその後で、水を惜しげもなく庭に捨てさせてしまったため、使者はまだ水が潤沢に残っていると判断し、六角義治にそう報告します。

このため六角軍は、まだしばらくは包囲戦が続くと思って油断しました。

しかし実際には、水はもういくつかの瓶(かめ)に蓄えた分しか残っておらず、勝家は家臣たちにひしゃくで一杯ずつ水を飲ませると、自ら瓶をすべて打ち壊してしまいます。

そして「水が尽きた以上、城から討って出て、六角軍を蹴散らす他に生き延びる術はない」と家臣たちに告げます。

こうして追い詰められたことを明らかにして兵士たちの士気を高めると、夜間に城から討って出て六角軍を強襲し、多数の敵兵を討ち取って包囲軍を撃破しました。

この逸話から、「瓶割り柴田」という異名で勝家の武勇が称えられています。

越前を与えられる

信長は1573年に自ら大軍を率いて越前に攻め込むと、朝倉義景を滅ぼします。

そして征服した越前の統治を、朝倉氏の旧臣である前波吉継に任せました。

しかし前波吉継は一向一揆の攻撃を受けて戦死し、信長は織田軍の総力をもってこの一揆を壊滅させます。

この再度の越前平定後に、信長は勝家に越前49万石を与え、国持ち大名の地位を与えました。

こうして勝家は、1万人以上を指揮する将としての立場を得ています。

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