本能寺の変
1582年になると、勝家は越中への侵攻を本格化させ、上杉方の拠点である魚津城や松倉城を包囲しました。
そして6月3日に魚津城を攻め落としますが、この前日に信長が京都の本能寺で、明智光秀の謀反にあって殺害されています。
やがて勝家の元にこの知らせが届き、6日には全軍を撤退させ、本拠である北ノ庄城へと帰還し、畿内に入って明智光秀を討とうとします。
しかし信長の死を知った上杉軍が越中にゆさぶりをかけてきたため、すぐには動けず、18日になってからようやく畿内に出陣できました。
ところが、この時にはすでに中国地方から急行軍で引き返してきた羽柴秀吉が、明智光秀を京都の山崎で討っており、勝家の出動は空振りに終わりました。
この時に勝家の立場は、秀吉に追い抜かれたことになります。
明智光秀を討ったものが次の時代の主役になると見抜いていた秀吉の、速攻による勝利でした。
清州会議で信孝を推す
6月27日には清洲城で会議が開かれ、信長の遺産の分割と、織田家の当主を誰にするかで話し合いが持たれます。
信長の嫡男である信忠もまた、本能寺の変の際に戦死しており、織田家の当主の地位が空席になっていたのです。
この時に勝家は三男の信孝を当主に推薦しています。
次男の信雄は健在でしたが、家臣団から無能な人だと認識されて相手にされておらず、このために三男の信孝が妥当だと勝家は判断したようです。
一方で、明智光秀を討ったことで発言力が増大していた秀吉は、かねてより信長の四男・秀勝を養子としており、この子を後継者に押してくるのではないかと見られていました。
しかし秀吉は信忠の遺児で、まだ幼児の三法師を当主に推薦するという、意外な案を持ち出してきます。
幼児を当主に据えることで、織田家を無力化して、自分の手で天下を握ろうというのが秀吉の考えでした。
勝家はこれに気づいて反対しますが、丹羽長秀や池田恒興ら他の重臣たちが秀吉に賛成したため、これに押されて三法師の当主就任を認めざるを得なくなります。
遺領の分割
さらに信長の遺領の分割では、秀吉が山城(京都中央部)や丹波(京都北部)といった畿内の重要地域を手に入れ、織田家臣団の中で最大の勢力を持つに至ります。
光秀の討伐に功績がなかった勝家には、さほどの加増がありませんでしたが、秀吉の領地であった北近江・長浜を要求し、これを手に入れています。
越前と近江を結ぶ要地を手に入れることで、畿内に進出できる通路の確保を図ったことになります。
この時に秀吉からは、勝家の養子・勝豊を城主にするようにと付帯条件が付けられ、勝家はこれを了承しました。
こうして秀吉の有利に会議は進み、勝家は劣勢に立たされたことになります。
お市の方と結婚する
秀吉は会議で自分の提案が受け入れられず、不満を抱えていた勝家をなだめるため、信長の妹で、美女として名高いお市の方との結婚を勧めています。
主家の女性との結婚であったため、他の重臣たちや織田一族の了解を取り付けた上で、これが実現しました。
こうして勝家は織田一門との関係を強化した上で、信長死後の混乱した情勢に対応していくことになります。
勝家は織田氏の勢力の維持と、自らの地位の向上を志します。
一方で、秀吉は織田氏から簒奪して自分が天下人になることを目指しており、両者の間に闘争が発生するのは時間の問題でした。
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