柴田勝家 信長の筆頭家老として活躍した猛将の生涯について

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盛政の命令無視と、秀吉の帰還

勝家は盛政が突出したことで、防衛網にほころびが生じたことに危惧を感じており、約束通り早く撤退するようにと盛政を促します。

しかし盛政は約束を破って撤退せず、さらに翌日も秀吉軍に攻撃をしかけるべく、前線に留まり続けました。

勝家は何度も使者を送りましたが、自らの武勇を過信する盛政が、この命令を受け入れることはありませんでした。

「小僧のせいで、ついに我が身は滅びるか」と勝家は嘆きました。

一方で、美濃に向かっていた秀吉は、盛政が突出して勝家軍の陣形が崩れていると知り、「これで天下はわしのものとなった」と言って喜びました。

そしてわずか5時間で美濃から北近江へと主力を移動させ、夜のうちに盛政隊を包囲してしまいます。

こうして勝家軍は、陣形が崩れた上に、突出した部隊が包囲されるという危機に陥りました。

賤ヶ岳の戦い

翌朝から秀吉軍の攻撃が開始され、盛政は撤退を開始します。

この時の盛政の指揮ぶりは際立っており、秀吉軍の追撃を受けながらも陣形を乱さず、落ち着いて引き下がっていきました。

これを見た秀吉は、より脆弱な柴田勝政(勝家の養子)の部隊に攻撃目標を変更し、こちらを切り崩そうとします。

秀吉軍の圧力が減じ、余裕ができた盛政は勝政隊の救援にあたり、戦況は秀吉側が押し気味でありながらも、決め手を欠いた状況になりました。

このようにして激戦が行われていた最中に、勝家軍の一翼を担っていた前田利家が、突如撤退を開始してしまいます。

これによって均衡が崩れ、前田軍の撤退によって勝家が敗れたと誤認した後方の武将たちも、連鎖的に撤退してしまいました。

この「裏崩れ」という現象によって勝家軍は崩壊し、やがて盛政の部隊が撃破されます。

そして残る勝家の部隊も、集中攻撃を受けて持ちこたえられなくなりました。

勝家はこれ以上の抗戦が不可能だと悟ると、わずかな供たちと戦場を離脱し、北ノ庄城に撤退しました。

こうして勝家は利家の戦場放棄によって、秀吉との決戦に敗れ去っています。

前田利家の意図

前田利家は秀吉に子どもを養子として授けるほどの深い仲で、秀吉と戦うことに、はじめから気がすすまなかったようです。

このため、秀吉軍との戦いが始まると、戦場を放棄して撤退するというふるまいに出ました。

一方で数年に渡って勝家とも北陸の平定に携わった仲でもあり、この板挟みとなって悩んでいたようです。

そういった事情から、戦場を放棄するという、どちらにも味方しない、という選択を最後に行いました。

この結果を見るに、勝家は味方を十分にまとめきれていなかった、ということでもあります。

北ノ庄城の戦い

勝家は北ノ庄城に戻った後、わずかな兵たちと共に籠城し、抗戦を続けます。

城内の狭い通路を利用して防衛しようとしますが、秀吉はこれを見て、特に選んだ強壮な兵士たちを送り込んで来ました。

そして7度に渡って白兵戦が行われますが、ついに勝家方は力つきて引き下がります。

こうして勝家は城の天守に追い詰められ、最期の時を迎えます。

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