用いられない時期が続く
この後、1560年に信長は駿河の今川義元に大軍で攻め込まれ、危機に陥りましたが、桶狭間で撃退して難を逃れています。
しかし、織田氏にとって大事なこの戦いに、家中随一の猛将である勝家は用いられませんでした。
また、信長は尾張の統一後、北の美濃(岐阜県)に侵攻しますが、この時期にも各地の参戦者に勝家の名前は見受けられません。
どうやらこの時期に勝家は信長から干されていたようで、およそ10年にも渡って功績を上げる機会が与えられませんでした。
戦いに自信のある勝家からすれば不本意なことだったでしょうが、信長からすると、信勝に与して逆らい、直接戦いまでした勝家を、そう簡単に用いる気にはなれなかったのでしょう。
互いに多くの家臣たちを殺害しあった間柄でしたので、その係累の者たちの恨みや憎しみが薄れるまで、冷却期間を置く必要もあったと思われます。
また、勝家は不器用な性格で、主君に取り入って機嫌を取り結ぶ、といったふるまいが苦手で、それもまた信長から遠ざけられる要因になっていたのかもしれません。
この頃には木下秀吉や滝川一益、森可成といった新参の家臣たちが信長に用いられて出世しており、相対的に勝家の地位は低下していくことになります。
信長の上洛戦を機に用いられるようになる
1567年になると、信長は美濃の征服を完了させ、二ヶ国を支配する大大名の地位につきました。
これにともない、足利将軍家や朝廷からも頼りにされるようになり、信長は上洛して畿内に勢力を築くことを目指すようになります。
そしてそれを足がかりに、天下統一をも意識するようになりました。
この時から信長は勝家を起用するようになり、先鋒大将のひとりとして活躍することになります。
軍の先鋒は、勇猛で指揮能力に優れた武将が担う役割ですので、信長は勝家の武勇を高く評価していたのでしょう。
また、領地が広がって戦力が大幅に増えたことから、有能な武将をいつまでも遊ばせておく余裕がなくなった、という人材確保上の理由もあったと思われます。
かかれ柴田
勝家は「かかれ柴田」という異名を持っており、これは勝家が率いる部隊の突進力が、織田軍団の中で最も優れていたことからついた名前でした。
勝家は先鋒大将として、南近江を支配する六角義治や、畿内に勢力を持つ三好三人衆との戦いで活躍し、武名をあげていきます。
さらに信長が京都を抑えると、一時的にですが行政担当者のひとりにも任命され、統治者としての経験も積んでいくことになります。
信長は勝家の戦場での働きを認め、ある時常任の先陣大将に任命しようとします。
勝家はこれを断りますが、信長は押し付けるようにして任命してしまいました。
その後、勝家の部隊が城下を行進していたところ、信長の側近の部隊が道を譲らなかったため、衝突してしまいます。
勝家はこの側近をとがめて無礼討ちにしました。
側近を殺害された信長は怒りますが、勝家は「先陣大将には、信長様の側近と言えども遠慮して引き下がるほどの権威がなければ、とうてい務まるものではありません」と反論し、信長もこれには言葉を返すことができませんでした。
こうした挿話から勝家の屈強さと、硬骨な性格がうかがい知れます。
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