周瑜 赤壁で曹操を破り、呉の隆盛を導いた名将の生涯

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偽りの降伏

準備が整うと、黄蓋は曹操に降伏を申し入れる手紙を送りました。

これを読んだ曹操は、本当に黄蓋が降伏するのかを危ぶみ、使者に詳しい事情をたずねます。

黄蓋は孫堅の代から仕えている呉の宿将でしたので、簡単に裏切るとは思えなかったからです。

曹操は使者に「おまえたちが偽りを働くのではないかと、わしは心配している。

だが黄蓋がもし本当に降伏するのなら、これまでに例がないほどの爵位と恩賞を授けよう」と述べました。

しかし曹操は黄蓋を疑っていたのに、火計をしかけてくるとは予想できなかったようで、船団を密集させたままにしています。

このあたりが、曹操という武将の限界だったのでしょう。

曹操は陸戦は得意でも、水戦は経験もなく、素人同然だったようです。

曹操を敗走させる

黄蓋は指揮をとるために、燃料を積んだ船団に走舸そうかという快速船をつないで乗り込み、曹操の陣営に向かって出発しました。

曹操の陣営では将校も兵士も、そろってその様子をのんきに見物し、「黄蓋が降伏してくるのだ」と言い合っていました。

黄蓋はころあいを見計らい、燃料を積んだ船を切り離すと同時に、火を放ちます。

ちょうどこの時、強風が吹きすさんでいましたので、これらの船が突入すると、曹操軍のすべての船に火が燃え移り、陸上の軍営にまで延焼しました。

あたりには煙と炎が充満し、おびただしい数の人馬が焼死します。

周瑜と劉備がその機を捉えて攻撃をしかけると、曹操は大敗を喫して逃走しました。

その後も疫病が広がって軍が動けなくなったため、曹操は江陵こうりょうに抑えとして将軍の曹仁を残し、自身はほうほうの体で北方に逃げ帰ります。

こうして孫権・劉備連合は曹操に大勝し、彼の天下統一の野望を阻んだのでした。

周瑜はこの戦勝に多大な功績をあげ、その名声が大いに高まっています。

江陵の攻略に向かう

戦果を拡大するべく、周瑜は引き続き荊州の攻略に向かいました。

そして程普とともに南郡まで進撃し、曹仁と長江を隔てて対峙します。

江陵には食糧が集積されていましたので、荊州おける重要な軍事拠点となっていました。

このため、劉備は張飛に千人の兵を預けて周瑜に従わせ、代わりに周瑜に二千の兵を貸してくれと要請します。

軍勢を互いに預けて信用の証とし、協力して江陵を攻め落とすことを提案しました。

周瑜はこれに同意し、自軍から二千の兵を選び、劉備に預けています。

こうして周瑜は、劉備軍の働きを間近で目にする機会を得ることになりました。

曹仁との対決

周瑜はまず、甘寧かんねいを送って夷陵いりょうを占拠させました。

すると曹仁はこれに対抗するため、別動隊を送って攻撃してきます。

敵に包囲された甘寧が救援を求めて来ると、周瑜は呂蒙りょもうの策を採用し、急襲をしかけて曹仁の別動隊をけちらしました。

そしてその勢いをかって江陵城へと迫り、一気に決着をつけようとします。

周瑜と曹仁は日時を定め、正面から決戦を行いました。

この時、周瑜は自ら馬に乗って最前線で指揮をとり、曹仁の陣営に乗り込みます。

周瑜の奮闘によって呉軍は優勢となりましたが、そのとき一本の流れ矢が飛来し、周瑜の右の脇腹に命中してしまいます。

この傷は重く、周瑜は撤退せざるを得なくなり、勝機を逃すことになりました。

曹仁が押しよせる

曹仁は周瑜が重傷を負い、床に伏せったままだと知ると、軍勢を率いて陣営に押しよせてきました。

周瑜は曹仁が来たと聞くと、自らを励まして立ちあがり、陣営の中を巡って将兵を激励します。

その様子を見た曹仁は、周瑜を打ち破るのは難しいとみて引きあげました。

しかしやがて、こうした無理が周瑜にたたることになります。

南郡太守となる

やがて曹仁は劉備の攻撃をも受けるようになると、江陵を守り切るのは無理だと判断し、撤退しました。

周瑜は曹仁が去った後の江陵を占拠すると、孫権から南郡太守に任命されます。

そして四つの県を奉邑ほうゆうとして与えられました。

奉邑とは、その地の租税を私的に用いることができる領地のことで、赤壁と江陵での大功に、孫権が報いたのでした。

一方で劉備は荊州ぼく(長官)となり、各地を攻略して公安に拠点を構えます。

こうして荊州南部には、孫権と劉備の勢力が併存する状況となりました。

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