おおらかな人柄
周瑜の人柄を伝える逸話に、程普との関係について触れたものがあります。
周瑜はおおらかで度量があり、多くの人に慕われました。
しかし呉の武将たちの中では、程普とだけはうまくいっていませんでした。
程普は周瑜よりいささか年長で、孫権の父・孫堅の代から仕えている重臣でした。
このため、周瑜が孫権に信頼され、自分と同列にまで立場が向上したのが面白くなく、しばしば周瑜を侮辱することがありました。
しかし周瑜は決して反発せず、身を低くして謙虚な態度を保ちました。
それが続くうちに、程普の心も和らいだようで、後に周瑜に心服し、親しくつきあうようになります。
その時に程普は「周公瑾どのと交わっていると、まるで芳醇な酒を飲んだように、気づかないうちに酔ってしまう」と述べました。
それほど周瑜との付き合いは心地よいものだったようですが、程普との関係を改善した周瑜の重厚な人柄は、ますます人々からの称賛を集めることになります。
程普と周瑜は赤壁の戦いや、南郡攻略戦において、同格の指揮官として活躍しました。
音楽に精通していた
その他には、周瑜は音楽に精通し、鋭い音感を持っていた、という逸話があります。
周瑜はたくさんお酒を飲んだ後でも、演奏に間違ったところがあるとすぐに気がつき、演奏者の方を振り返って見つめました。
このため、「曲にあやまりがあると、周郎が振り返る」というのが当時の流行り言葉になっています。
また、成人すると立派な風采を具えたことから、「美周郎」というあだ名をつけられてもいました。
つまり周瑜は名門の出身で、曹操にも勝つほど軍事に優れ、主君には家族同然に扱われて信頼され、音楽の才能があり、性格も外見も秀でていたという、完璧とも言える男性だったのです。
それに加え、妻が大変な美人でもありました。
ゆえに早死にした周瑜は、佳人薄命だったのだとも言えます。
周瑜評
三国志の著者・陳寿は周瑜を次のように評しています。
「曹操は漢の丞相という地位を利用し、皇帝を手もとに置き、その威を借りて群雄たちの掃討に努めた。
そして荊州を攻め落とすや、その勢いをかって呉の地に矛先を向けた。
この時、孫権に意見を申し述べる者たちは、国の前途を危ぶみ、確信を持つことができなかった。
そんな中で、周瑜と魯粛は他人の意見に惑わされず、明瞭に見通しを立て、人々から抜きん出た存在だということを示した。
これはまことに非凡な才能と言えるものである」
また、孫権は後年になって、陸遜と語り合った際に、周瑜をこう評しています。
「公瑾は事を成そうとする大きな気概を持ち、その胆力と才略は人に勝っていた。
かくて曹操を打ち破り、荊州を切り開いた。
その気宇の大きさには、なかなか及びがたいものだ」
実際のところ、周瑜は呉の将軍たちの中では、軍事的な能力もさることながら、大局を見きわめ、雄大な戦略を立案する能力が図抜けていました。
彼が短命に終わることがなければ、その後の歴史の流れは、ずいぶんと変わったものとなっていたでしょう。
彼の後を受けた魯粛や呂蒙、陸遜はいずれも優れた人物たちでしたが、大局を変えるほどの働きはできておらず、周瑜には一歩劣っていたと思われます。
周瑜はこの時代を代表する名将にして、戦略家の一人だったと言えるでしょう。
周瑜の子どもたち
周瑜の娘は皇太子・孫登の妃となりました。
そして息子の周循は孫権の娘・魯班と結婚し、騎都尉(騎兵隊長)に任じられています。
このように、周瑜の子たちは孫権から大変な厚遇を受けたのでした。
なお、周循は「父に似ている」と言われて期待されましたが、寿命の短さまで似てしまったらしく、若くして亡くなっています。