曹仁 周瑜や馬超、関羽にも勝利した、知勇兼備の名将

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周瑜と対戦し、牛金を救い出す

その後、曹操、劉備、孫権による荊州の争奪戦が始まると、曹仁は行征南こうせいなん将軍に任じられ、江陵こうりょうに駐屯しました。

(行○○将軍とは、正式な就任ではなく、一時的にその役職を兼ねていることを指しています。この場合は征南将軍の代理といった意味です)

江陵は食糧が豊富に蓄えられている、荊州の重要拠点でした。

曹仁はそれを奪おうと攻めこんできた呉の将軍・周瑜と対戦します。

周瑜は数万の軍勢を率いていましたが、そのうちの千人を先行させ、江陵の城に近づかせます。

これを城壁から見ていた曹仁は、部隊長の牛金に三百の兵を与えて迎え討たせました。

しかし、牛金の兵力は敵の三分の一以下で、そのうえ指揮もまずかったようで、やがて敵軍に包囲されてしまいました。

曹仁と一緒に、城壁からその様子を見ていた長史(副官)の陳矯ちんきょうらは、牛金の部隊が壊滅しそうになっているのを見て、真っ青になりました。

しかし曹仁はひとり憤怒の絶頂に達し、自分の馬を引いてくるように命じます。

陳矯らは「賊軍は数が多く、勢いが盛んですので、これに当たるのは危険です。数百人を見捨てたとて、どれほどの損害でしょう。将軍が牛金のために、その身を危険にさらされてはなりません」と言って引きとめようとしました。

曹仁はこれに返事もせず、そのまま鎧をつけて馬に乗り、精鋭の数十騎を引きつれて出撃します。

曹仁はそのまままっすぐに敵陣に突入すると、包囲網を打ち破って牛金を救出しました。

そして一度軍を引きますが、まだ一部の軍兵が囲みの中に取り残されているのを見ると、曹仁は再び敵軍に突撃し、残りの兵士たちも救い出します。

呉の先鋒は曹仁の圧倒的な強さに怖れをなし、戦場から逃げ出しました。

曹仁が無事に帰還した姿を見た陳矯たちは、ため息をつきながら、「将軍はまさに天兵のようなお方だ」と称賛しました。

兵士たちは曹仁の超人的な強さに感服し、これを聞いた曹操は、曹仁の爵位を安平亭候に昇格させています。

なお、この時に救援された牛金は、のちに後将軍にまで立身しました。

周瑜に重傷を負わせる

その後、周瑜が甘寧を先行させ、夷陵いりょうを占拠させます。

すると曹仁は別動隊を派遣して甘寧を攻撃させ、包囲しました。

危機に陥った甘寧が周瑜に救援を求めると、周瑜は曹仁の別動隊を叩く好機だと判断し、呂蒙とともに出陣して包囲網を打ち破り、甘寧を救援します。

これによって曹仁軍は、いくらかの被害を受けました。

周瑜はさらに軍を前進させ、長江を渡って北岸に陣を構え、曹仁と対峙しました。

やがて曹仁は周瑜と示し合わせて日にちを決め、正面から決戦を行うことにします。

両将とも、潔い性格だったことがうかがえます。

この戦いで、周瑜は自ら馬にまたがり、曹仁の陣に乗り込むほどに奮戦をしました。

曹仁軍は押され気味になっていましたが、やがて陣中から放たれた矢が、たまたま周瑜の左の鎖骨に命中し、重傷を負わせます。

このために周瑜は撤退せざるを得なくなり、曹仁は幸運にも恵まれて、決戦に勝利することができたのでした。

追撃をかけようとするも、阻まれる

曹仁は周瑜が傷で伏せっていると聞くと、呉の陣営に押しよせて打ち破ろうとします。

しかし周瑜はそれを知ると、自らを励まして立ちあがり、軍営を巡って将兵たちを鼓舞しました。

その様子を見た曹仁は無理に攻撃をしかけず、軍を引いています。

こうして曹仁は周瑜にとどめを刺し損ねましたが、やがて周瑜はこの傷が元で、早死にすることになります。

そういった意味では、呉に大きな打撃を与えたことになりました。

江陵を奪われる

その後、劉備もまた江陵攻めに参加してきたため、曹仁は苦境に陥りました。

劉備は張飛に千人を預けて周瑜の指揮下に入れ、一方で周瑜から二千人を借り受け、軍勢を互いに送りあった上で、協調して曹仁を討つことを提案します。

「両軍がともども夏水から侵攻し、曹仁の退路を断とう。曹仁は我々がそろって攻め寄せたと聞けば、必ずや逃走するだろう」というのが劉備の策でした。

周瑜と劉備の軍勢が合同すれば、4〜5万にも達する大軍になったでしょうから、一将軍である曹仁が対応できる範囲を、完全に超えています。

このため、曹仁はついに江陵を放棄せざるを得なくなり、関羽の追撃を振り切って撤退しました。

こうして荊州の中〜南部は、劉備と孫権の勢力圏となります。

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