北伊勢への侵攻で先鋒を務める
1567年になると、信長は美濃の攻略を完了し、本格的に伊勢への侵攻を行います。
この時に一益は、伊勢攻略の先鋒として活躍しました。
信長は大軍を率いて北伊勢の豪族たちを攻撃し、神戸氏(かんべし)や長野氏を降して北伊勢の八郡を手中に収めます。
残る南の五郡は、守護大名の北畠具教(きたばたけ とものり)が支配しており、一益は引き続き、北畠氏の調略に取りかかりました。
南伊勢の攻略でも活躍する
南伊勢の攻略は、1568年に信長が足利義昭を推戴し、京都への上洛戦を実施したために中断されていました。
その間に一益は北畠具教の弟で、重臣の木造具政(こづくり ともまさ)を寝返らせることに成功します。
これに対して北畠軍は、木造城を奪還すべく攻撃をしかけて来ますが、一益や北伊勢の豪族たちの援軍によって持ちこたえ、戦況が膠着しました。
やがて上洛に成功して美濃に戻った信長は、7万という大軍を動員し、南伊勢の攻略に取りかかります。
北畠具教は信長の進軍を知って撤退し、本拠である大河内城(おおこうちじょう)に、8千の兵とともに籠城しました。
伊勢の攻略が完了し、守備を任される
信長の軍勢は南伊勢の諸城を攻略し、大河内城を包囲します。
この時に一益は多芸城を焼き討ちにし、周辺の住民を大河内城に追い込んで兵糧を減少させる、という武功を立てています。
大河内城は天然の要害であったため、攻撃してもなかなか落城せず、信長は次男の信雄を北畠氏の養子にする、という条件で大河内城の明け渡しを受け入れさせました。
一益はこの時に大河内城の受け取りを任され、戦後には安濃津(あのづ)や木造城の守備を信長から命じられています。
こうして一益は伊勢攻略で功績を立て、信長から高い評価を受けるようになっていきました。
長島の一向一揆に襲撃される
1570年になると、一向宗の総本山である石山本願寺が、信長と敵対するようになります。
すると伊勢・長島城の周辺に自治区を持つ一向衆が、蜂起して織田軍に攻撃をしかけてきました。
これによって一益とともに伊勢や尾張の守備にあたっていた信長の弟・織田信興が討ち取られてしまいます。
一益も攻撃を受けましたが、桑名城で籠城してこれをしのぎました。
これ以後は一向一揆と対決しつつ、各地で信長包囲網を敷いた、多くの敵と戦っていくことになります。
包囲網が打破される
信長は石山本願寺の他、浅井長政や朝倉義景、武田信玄らと敵対する状況になり、四方から攻撃され、数年に渡る厳しい戦いを強いられました。
しかし1573年に武田信玄が病死したことから、包囲網は弱体化して行き、信長の反撃が開始されます。
この年のうちに織田軍は越前(福井県)の朝倉義景の領地に侵攻し、一益も参戦してこれを滅ぼしています。
また、浅井長政も北近江(滋賀県北部)の小谷城に追い詰められて自害し、主だった敵はいなくなりました。
一向一揆を鎮圧し、北伊勢で大名となる
こうして余裕が生まれた信長は、1574年になると、伊勢に8万という大軍を投入し、一向一揆の殲滅を図ります。
一益はこの戦いで、伊勢志摩の海賊衆・九鬼嘉隆(くき よしたか)とともに水軍を率い、海側からの攻撃を担当しました。
ちなみに、九鬼嘉隆は一益の仲介によって信長に仕えており、この頃には一益の人脈が広がっていたことがわかります。
九鬼嘉隆とはこの後も何かと一緒に行動することが多く、その関係はかなり良好なものであったようです。
この時の信長の攻撃は容赦のないもので、一向衆は2万人以上が殺害され、門徒たちによる長島の自治領が壊滅しました。
戦後になると、信長は長島城を含む北伊勢5郡を一益に与え、大名の地位につけています。
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