信長の軍団長
この頃に信長は、主だった武将たちを大名の身分に引き上げており、彼らに多くの軍勢を与え、軍団長として各地の攻略に当たらせるようになっていきます。
これには越前の柴田勝家や、北近江の羽柴秀吉、南近江の明智光秀らが選ばれ、北伊勢では一益がこの立場につくことになりました。
彼らは信長の命令によって各地を転戦し、その勢力の拡大に貢献していくことになります。
各地で武功を立てる
1575年になると、信長は三河(愛知県東部)の長篠に侵攻してきた武田勝頼を迎撃すべく、多くの鉄砲隊を引き連れて進軍しました。
この時に一益は鉄砲隊の指揮を任されており、馬防柵の中から銃撃を行い、精強な武田軍に多くの損害を与えています。
さらに越前でも発生した一向一揆の討伐や、紀州(和歌山県)の雑賀衆の征伐にも参加するなど、信長の戦域の拡大に伴って、東奔西走することになりました。
摂津の戦いで活躍する
1578年になると、摂津(大阪府)の石山本願寺の攻略にも参加しています。
この頃には、中国地方の覇者である毛利氏が石山本願寺と同盟を結んでおり、海上から食糧や軍需物資の補給を行って、籠城を支援していました。
毛利水軍は強大で、織田水軍は戦いに敗れ、大阪湾の制海権を失ってしまいます。
信長はこの状況を打開するため、九鬼嘉隆に対策の立案を命じます。
これを受け、九鬼嘉隆は鉄甲船という、大型船の側面に鉄板を貼り付けて防御力を高め、鉄砲や大砲で武装した戦艦を、6隻ほど作り出しました。
この時に一益も同様の船を1隻作って参戦し、毛利水軍の撃破に成功しました。
また、信長に謀反を起こした摂津の大名・荒木村重の攻略戦の際にも、砦の守将を寝返らせることに成功し、その居城を攻め落とすのに貢献しています。
この結果、石山本願寺への兵糧の搬入は困難を来すようになり、1580年に一向衆は信長に降伏しました。
関東衆への申次に任命される
1580年になると、信長の勢力の拡大を知った関東の覇者・北条氏政が信長に使者を送ってきます。
この時に一益は関東衆の申し次ぎ役に任命され、外交を担うようになりました。
申し次ぎとは、地方の武家勢力と、中央の権力者の仲立ちをする役職のことです。
これは信長の筆頭家老である、佐久間信盛と一緒に任じられたのですが、まもなく信盛が追放処分を受けて失脚したため、一益が単独で申し次ぎを担当することになりました。
このことが後の一益の運命に、大きく関わってくることになります。
武田討伐で軍監を務め、勝頼を討ち取る
1582年の2月になると、信長は衰退した武田氏を攻め滅ぼすべく、嫡男の信忠に命じて信濃(長野県)と甲斐(山梨県)に侵攻させました。
この時に一益は軍監として遠征軍を統括する立場につき、同時に攻略戦の主力としても活躍します。
武田の諸将は既に当主の武田勝頼を見限っており、高遠城以外ではほとんど抵抗を受けず、織田軍は快調に進撃していきました。
そして1ヶ月ほどで甲斐に侵入した一益は、天目山で勝頼を討ち取るという大きな武功を立て、武田征伐の立役者となりました。
上野と信濃2郡を与えられ、関東御取次役に就任する
信長は討伐が完了してから甲斐に入ると、武田の遺領を諸将に分配しました。
この時に一益は上野(こうずけ。群馬県)一国と信濃の2郡を与えられ、さらに「関東御取次役」に任命されます。
これは関東地方を統括するほどの権限を信長から与えられたとみられ、一益は大きな出世を遂げました。
一益はこの論功行賞の際に、信長に珠光小茄子(じゅこうこなす)という高名な茶器を所望したものの、認められず、代わりに名馬と短刀を与えられた、という逸話があります。
一益はこの時すでに58才であり、新たに関東に向かって苦労をするよりも、茶器をもらって風雅を楽しみたい、という意志を現したのだと思われます。
しかし信長は軍事や調略に優れた一益を休ませる気はなく、せめてものいたわりの気持ちとして、行軍が楽になる名馬を与えたのだとされています。
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