賊を討滅する
梁興らはこの動きを恐れ、残った者たちを集めて鄜城に入りました。
すると曹操は将軍の夏侯淵を送り、郡を支援してこれを討たせようとします。
鄭渾は官民を率いて自ら先頭に立ち、梁興とその一党を斬り捨てました。
また、賊の靳富らが、夏陽の県長と邵陵の県令を脅迫し、官民を連れて磑山に入ります。
鄭渾は靳富らも討伐し、二県の高官を捕縛し、彼らが略奪したものを返還させました。
それから趙青龍という者が、左内史の程休を殺害する事件が発生します。
鄭渾はこれを知ると、壮士を派遣して討たせ、その首をさらしものにしました。
これらの事件の前後のうちに、四千余家が官に帰属するようになり、山賊たちはみな平定されました。
そして民は安心して生業に励めるようになります。
事態がおさまると、鄭渾は上党の太守に転任しました。
京兆尹となる
二一五年に、曹操が漢中を征討する際に、鄭渾は京兆尹に任命されます。
これは漢中を討伐するにあたり、後背地となる長安の行政長官です。
このころ、長安の住民はまだ新たに集まってきたばかりだったので、鄭渾はこの者たちのために、移住法を制定しました。
家族のいる者と単身者を一つの組にし、温情を備え信義のある者と、孤独な者と老人を一緒にさせます。
そして農業に従事させ、禁令を明らかにし、悪巧みをする者を摘発しました。
このため、民は安んじて農耕に取り組むことができるようになり、盗賊はいなくなります。
漢中でも功績を立て、中央に戻る
大軍が漢中に侵入すると、鄭渾は兵糧の運搬を担当し、最もよくその任務を果たします。
また、漢中の田畑を耕すために民を派遣しましたが、逃亡するものはいませんでした。
曹操はその功績をおおいに称賛し、再び丞相掾に任命し、鄭渾を朝廷に戻します。
曹操が亡くなって曹丕が皇帝に即位すると、侍御史(監察官)に任命され、駙馬都尉の官も加えられます。
二郡の太守となり、堤防を築く
それから鄭渾は陽平と沛の二郡の太守になりました。
これらの郡の境界は、湿った低地帯となっており、水害の懸念があり、民は飢えていました。
このため、鄭渾は蕭と相の二県の境界に堤防を作り、稲田を開墾します。
郡の人々はみな、これはよくない施策だと考えました。
鄭渾はこれに対し「ここの地勢は水を含んで落ち込んでいるから、灌漑を施せば、永く魚を得て、稲が収穫できるようになる。これこそが民を豊かにするための根源となるのだ」と答えます。
そして自ら官民を率いて工事を行い、一冬の間に完了させました。
すると連年に渡って豊作となり、田畑は年ごとに増えていき、租税の収入はそれまでの倍にもなります。
民はその恩恵を受け、事績を石碑に刻みました。
そして堤防に「鄭陂」と名前をつけています。
山陽と魏郡の太守になる
その後、鄭渾は山陽郡や魏郡の太守になりましたが、そこでの統治は先の活動と同じようなものでした。
郡の民が材木の不足に苦しんでいると、榆を植えて籬(垣根)にさせ、五本の果樹を植えさせます。
やがて榆がみな藩(垣根・おおい)となり、五本の果樹は豊かに実るようになりました。
魏郡の境界に入ると、村落はいずれも整然とした姿を見せ、民は財を得て、余剰の物資を蓄えるようにもなります。
曹叡はこれを聞くと、詔勅を下して称賛し、天下にその功績を布告しました。
そして鄭渾は將作大匠(宮殿の造営担当者)に任命されます。
鄭渾は清廉で飾ることをせず、公務に熱心に取り組んでいたため、妻子は飢えや寒さを逃れることができませんでした。
多くの民を豊かにしたのに、自身の財を築くことには興味がなかったようです。
やがて没すると、子の鄭崇が郎中(宮廷官)に取り立てられました。
鄭渾評
三国志の著者・陳寿は「鄭渾には人をいたわる心があり、道理をわきまえていた。魏の時代における名太守である」と評しています。
鄭渾は単に有能であるだけでなく、民の暮らしや心情までおもんばかることができた点が、特に優れていたと言えるでしょう。
なお、兄の子である鄭袤もまた高く評価され、光禄大夫(皇帝の側近)にまで立身しています。