光秀が病に倒れる
光秀の友人に、公卿の吉田兼見という人物がいました。
兼見の日記である『兼見卿記』には光秀の話が多く出てくるのですが、その中に煕子が登場するものもあります。
1576年に、光秀は信長に命じられて丹波(京都北西部)の攻略に取りかかっていたのですが、やがて病にかかり、床に伏してしまいました。
この頃に、「光秀は激しい腹痛に苦しみ、やがて死去した」と死亡説が流れるほどで、相当な重病だったようです。
病の平癒を依頼する
光秀は曲直瀬道三という名医の治療を受けていたのですが、煕子は不安を感じたようで、兼見に病を平癒するための祈念を依頼しています。
兼見は神道との関わりが深かったので、これ以前にも、たびたび明智家の人々から、神事に関する相談を受けていました。
『兼見卿記』には、信長から光秀に見舞いの使者が遣わされたことが記録されています。
このようにして、当時は重要人物となっていた光秀の病は、様々な方面に影響を与えたようです。
煕子の心配のかいもあってか、死亡説が流れた翌日ごろから光秀は回復し始め、やがて再び任務につけるようになります。
煕子が病にかかる
しかし今度は看病の疲れのせいか、煕子もまた病にかかってしまいます。
このため、今度は光秀が兼見に、煕子の病を平癒するために祈念してほしいと依頼します。
これは10月10日のことでした。
兼見はすぐに祈念したお祓いやお守りを持参し、煕子を見舞いました。
やがて煕子は10月24日には回復し、兼見にお礼として銀子一枚が贈られています。
その後もしばらくの間、光秀は妻を看るために京都に滞在しており、兼見もたびたび見舞いに訪れました。
このように光秀と煕子は、後年になっても仲睦まじい夫婦であったようです。
死去する
しかしこの後で病がぶり返し、悪化してしまったようで、11月7日に煕子は死去してしまいました。
この日付は菩提寺である西教寺の過去帳に記録されています。
享年は46才だとされていますが、確証はありません。
異説として、1582年に坂本城が落城した際に死去した、という話もあるのですが、信憑性は低いようです。
その後の明智家
よく知られている通り、その後、光秀は信長との関係が悪化し、1582年に本能寺の変を起こしました。
信長を討つことに成功し、味方を増やそうとした光秀は、三女ガラシャが嫁いでいる細川氏に支援を求めます。
しかし細川家の当主・藤孝はこれを拒否し、ガラシャを幽閉して明智氏との関係を絶ちました。
また、四女が嫁いでいた織田信澄は、光秀と共謀しているのではないかと疑われ、襲撃されて殺害されます。
そして光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて逃走しましたが、山中で落ち武者狩りに討たれました。
長女の婿である明智光春は、残留して坂本城を守っていましたが、やがて包囲され、抵抗するべくもないと判断し、残った一族とともに自害して果てています。
このようにして煕子の死後に、明智氏は再び滅亡してしまったのでした。
また、父・範煕は坂本城の落城を見届けた後、娘が眠る西教寺の境内で自害しています。
煕子はこれらの様子を目の当たりにすることはなかったのですが、それはまだしも幸いだったと言えるかもしれません。
墓所と妻木氏のその後
光秀と煕子の墓所は、滋賀県大津市の西教寺にあります。
なお範煕の子、つまり煕子の兄弟である貞徳は、領地を子に譲って隠居することで、取り潰しを免れました。
その後、妻木氏は関ヶ原の戦いで家康に味方して所領を安堵され、旗本として明治維新を迎えています。