楊戯 蜀臣たちを称賛する文章を残した、怠惰な官吏

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譙周を称賛する

ところで、蜀には譙周しょうしゅうという学者が仕えていました。

学識が高く、その点では優れていたのですが、政務に携わらなかったので、人々は現実の役に立たない者だと見なしていました。

このため、譙周を尊敬し、心を寄せる者はほとんどいませんでした。

しかし楊戯だけは彼を重んじ「われわれの後世における評判は、結局、この長身の男に劣るだろう」として、称揚します。

「長身の男」といったのは、譙周は身長が八尺(184cm)もあったからです。

見識のある人たちは、このことから楊戯を高く評価しました。

実際の所、譙周は晋の諸侯となり、子孫が栄えたからです。

その他の人物たち

楊戯とともに期待されていた者たちですが、張表は名声・官位がともに楊戯と同列でしたが、後に尚書となり、督庲降・後将軍にまで立身しています。

そして楊戯よりも先に亡くなっています。

残る程祁と楊汰は、いずれも早死にをしてしまいました。

季漢輔臣賛

楊戯は『蜀志』の最後に記載されている人物なのですが、これまで見てきた通り、特に蜀にとって重要人物だというわけではありません。

そんな彼が最後を飾ったのは、『季漢輔臣賛』という、蜀の臣下たちの功績を称賛する文章を記したためです。

三国志の著者・陳寿は楊戯の記録についで、これを掲載することで、蜀に仕えた者たちを顕彰して、蜀志をしめくくったのでした。

人物伝が立てられなかった者たちについても書かれており、陳寿がその補足をしています。

全文は長いので、ここでは序文だけを掲載します。

序文

『その昔、周の文王は徳を歌われ、武王はその盛んさを歌われた。

世をおおう君主は、身を立てて道義を行うが、一代限りとせず、王朝の基礎を築き、発端を開くことによって、来世にまでその光明を輝かせる。

我が中漢(後漢)も末期に至ると、王室は力を失い、英雄豪傑が並び立ち、戦火が盛んになり、兵難がおさまらなくなり、人々は塗炭の苦しみを味わった。

その結果、主上(劉備)はこの事態を憂慮されるようになった。

燕・代の地(幽州)で旗揚げされ、その仁徳の評判は広く聞こえ渡った。

斉・魯の地(徐州・豫州)を巡られると、英明の評判が伝わった。

荊・郢の地(荊州)を頼って功業を進められた時には、その君臣(劉表とその臣下たち)が心を寄せた。

呉・越の地(楊州)に援助の手をさしのべられると、賢者も愚者もみな、その威風を頼みとした。

巴・蜀の地(益州)に武威を示されると、万里のかなたまでが震えあがった。

庸・漢の地(漢中)に出兵されると、侵略者(曹操軍)は怖れをなして逃げ出した。

それゆえ、高祖(劉邦)の始めたことをよく継承され、漢の宗廟を復興なさることができたのである。

しかしながら、姦悪で凶暴な者たちには、いまだに征伐を加えられておらず、ちょうど孟津もうしんで軍を返したような、鳴条めいじょうでの戦いを前にしているような状況にあった。
(孟津などのたとえは、周の武王が、機が熟していないと判断し、兵をひいた故事に由来しています)

天から与えられるものには限りがあり、やがて病の床につかれた。

天下統一の事業を進めておられたが、多くの国々の者たちが一つとなって従ったのは、当時、優れた者たちが主上の力となって支え、その明らかな徳義によって、人々の心を懐かせたことも、影響が大きかった。

このようにして、優れた人材がそろっていた点でも、見事なものだった。

そこで、彼らの優れた風貌を並べて記録し、後世の人々の耳目を動かそうとしているのである』

季漢輔臣賛の全文は、いずれ他の記事に掲載します。

楊戯評

三国志の著者・陳寿は「楊戯は人物の判定を行ったが、その意図は多くの人の中から、優れた者を見いだすことにあった。

しかしながら、その知恵には短所があり、危うく災難にみまわれるところだった」と評しています。

楊戯は人を見る目があり、友情に篤く、よいところもたくさんありました。

諸葛亮や蒋琬によって用いられたところから、能力もあったことがわかります。

しかし怠惰であり、上司に対して適切な礼節を守らなかったため、最後には身分を失ってしまいました。

一方で、蜀臣たちを称賛する文章を書いたことで、史書に名前を残すことになっています。