茶々(淀殿) 豊臣秀頼を生んだ女性の生涯について

スポンサーリンク

茶々(ちゃちゃ)は豊臣秀吉の妻となって秀頼を生み、やがて豊臣家の実権を握った女性です。

浅井氏と織田氏の一族に生まれ、戦乱の中で父と母を失いました。

そして自身も大坂の陣という大戦に敗れ、豊臣家を滅亡に導いてしまっています。

この文章では、そのような激動の生涯を過ごした茶々について書いてみます。

Yodo-dono_400

【茶々の肖像画】

浅井長政とお市の方の間に生まれる

淀殿は1569年に北近江(滋賀県北部)を支配する大名・浅井長政の娘として生まれました。

茶々と名付けられ、これが生涯を通しての名前となります。

(「淀殿」や「淀の方」は秀吉の子を生んで以降の称号のようなものです。)

母はお市の方で、織田信長の妹です。

信長は長政と同盟を結び、自身の覇道の協力者とするために、妹を嫁がせて義弟にしていました。

信長が血縁者をよその家に嫁がせるのは珍しく、それほど長政を厚く信頼していたのですが、後に両者は敵対することになります。

その決裂は、茶々が生まれてからわずか1年後に発生しました。

浅井長政と織田信長の対立

1570年になると、信長は上洛命令に従わない越前(福井県)の朝倉義景の討伐を開始します。

これがきっかけとなり、長政は信長と手を切ることになりました。

同盟を結ぶ際に、信長が朝倉氏を攻める際には、事前に長政に通告して相談する、という約束をしていたのですが、信長がこれを破って無断で攻撃を開始したからです。

浅井氏はかつて滅亡の危機に瀕していた際に、朝倉氏の支援によって立ち直った経緯があり、このために長政は、信長の朝倉氏への無断攻撃を黙認しませんでした。

長政は信長との同盟を破棄すると、ただちに織田軍への攻撃を開始します。

そしてそこから4年に渡り、信長と激闘を繰り広げることになりました。

浅井氏の滅亡と、父と兄の死

1573年になると、浅井氏と朝倉氏は強大な力を持つ信長に追い詰められ、ついに滅亡の時を迎えます。

織田軍は浅井氏の本拠である小谷城を包囲し、大軍をもってこれを攻め落としました。

落城の寸前に、長政はお市の方と茶々ら娘3人を城から脱出させています。

茶々たちはその後、伯父の織田信包(信長の弟で、お市の兄)によって保護されました。

しかし長政は小谷城で自害し、城から逃亡した兄の万福丸は捕らえられ、処刑されてしまいます。

こうして茶々は4才で父と兄を失い、生まれた城を追われました。

信長の一族であったため、その身柄は保護されましたが、戦国の世の荒々しさと厳しさを、幼い頃から身にしみて知ることになりました。

母が再婚し、北ノ庄城に移る

その後は織田氏の本拠・尾張(愛知県)の城で母や妹たちと平和に暮らしていましたが、1582年になると、天下統一を目前にしていた信長が家臣の明智光秀に討たれてしまいます。

こうして思わぬ形でお市の方と娘たちにも、境遇の変化が訪れることになります。

信長の遺産の分割などが尾張の清州城で話し合われ、この結果、お市の方は織田家の重臣・柴田勝家に嫁ぐことになります。

これにともなって茶々たちも、柴田勝家の居城である越前の北ノ庄城に移住しました。

この結婚は、清州会議でさほどの利益を得られなかった勝家をなだめるために、秀吉が取り計らったものだと言われています。

勝家からすると、主君の妹君をもらい受けたわけで、名誉なことではありました。

【次のページに続く▼】