張燕は後漢の末期において、盗賊団を率いて各地を荒らし回っていた男です。
世の混乱に乗じて勢力を伸ばし、やがて数万の軍勢を率いるほどの立場を手に入れました。
そして袁紹と争いますが、やがて袁紹に加担した呂布に敗れます。
その後、張燕の部下は離散していきましたが、曹操に帰順を申し入れることで、将軍位と爵位を手に入れ、生き延びることができました。
この文章では、そんな抜け目のない乱世の成り上がり者だった、張燕について書いてみます。
常山に生まれる
張燕は常山郡の真定県で誕生しました。
生年は不明となっています。
本来の姓は「褚」と言いましたが、後に改姓しています。
このため、元々の名は「褚燕」だったことになります。
張燕に改名するまで、以下は褚燕で表記していきます。
黄巾賊の乱に乗じて盗賊団を結成する
184年になると、黄巾賊の乱が発生し、後漢の各地は戦乱にみまわれることになります。
すると褚燕は若者を集めて盗賊団を結成し、山沢地帯を根城として、各地を荒らして回りました。
この時には劉備など、義兵を挙げて黄巾賊の討伐で名を上げた者たちがいましたが、褚燕は混乱に乗じて略奪に励んだのでした。
このことから、褚燕はもともと、社会の裏側に属する人間だったのだろうと推測できます。
一万人以上を集める
褚燕には人を束ねる才覚があったようで、各地を巡ってから常山に戻ると、その盗賊団は一万人を数えるほどの規模になっていました。
こうなるともはや、一個の勢力を形勢していたのだと言えます。
一方で博陵のあたりに、張牛角という者がいて、彼もまた褚燕と同じく、若者たちを集めて徒党を組み、勢力を築いていました。
やがて褚燕は張牛角と意気投合し、合流することにします。
そして褚燕は張牛角を頭目に押し立て、その下につくことにしました。
おそらくは、張牛角の方が人数が多かったのでしょう。
むやみに頭目の地位を争わなかったあたりに、褚燕の賢明さがうかがえます。
張牛角が戦死し、改名する
やがて張牛角と褚燕は、一緒になって廮陶を攻撃しました。
しかしその戦いで、張牛角は流れ矢に当たって重傷を負います。
張牛角はいまわの際に「必ず褚燕を頭目にせよ」と言い残しました。
間もなく張牛角が死ぬと、人々はその遺言通りに、褚燕を頭としていただくようになります。
褚燕はこの時に姓を「張」に改め、「張燕」と名のるようになったのでした。
彼の姓は、張牛角からのもらいものだったことになります。
姓は先祖や一族とのつながりを示すものですが、褚燕はそれをあっさりと捨て去ってしまったのでした。
彼にとっては先祖や家族よりも、仲間とのつながりの方が大事だったのでしょう。
張燕は人並みはずれて敏捷で、かつ剽悍だったので、人々は彼に「飛燕」というあだ名をつけました。
あだ名のような名前
こうして褚燕は姓を変えたのですが、『典略』という書物に、この当時の盗賊たちの名前の付け方が触れられています。
『賊の頭目たちは出自が低く、それゆえか、自分勝手に号や字をつけていた。
たとえば、白馬に乗っているから「張白騎」と名のったり、敏捷なものを「張飛燕」と呼んだ。
声の大きな者を「張雷公」と呼び、目の大きな者は「李大目」と自称した』
といったことが書かれていますが、この中に「張飛燕」とあるのが、張燕のことでしょう。
となると、名の「燕」もまた本名ではなく、あだ名か、自称したものだったのかもしれません。
姓が人から譲り受けたもので、名もあだ名だったとすると、彼は本名にこだわりなく、自分の性質を表す名前を、勝手に名のったことになります。
このあたりのふるまいに、当時の荒くれ者たちの、自由気ままな気風をうかがい知ることができます。
さらに勢力を拡大し、黒山を名のる
張燕は戦乱の中でさらに人数を集め、常山や趙郡、中山、上党など周辺地域の賊徒と、よしみを通じていきました。
それらの地域の、小さな集団の頭目たちは、みな手勢を率いて張燕に従属しましたので、やがて彼の兵力は数万を数えるほどになります。
張燕は「百万の人数を集めた」と吹聴し、自分の集団を「黒山」と命名しました。
このため、張燕の勢力は「黒山賊」と呼ばれるようになります。
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