長坂で曹操軍の追撃を食い止める
その後、劉備は曹操の元から離れ、紆余曲折をへて、やがて荊州にたどり着きました。
そして荊州の主である劉表の客分になり、曹操に対抗します。
しかし208年になると、劉表は死去してしまいます。
すると後継者の劉琮が曹操に降伏したため、劉備は南に逃れて体勢を立て直すことにしました。
この時に、十万もの荊州の民が、劉備についていきたいと願い出ました。
このため、劉備は手もとに張飛と趙雲を残し、関羽には別働隊を預けて先に逃れさせます。
そして三千の兵と民とともに南に移動を開始しましたが、あまりに人数が多かったために足が遅くなり、長坂で曹操に追いつかれてしまいました。
この時に劉備は、張飛に二十騎を指揮させ、曹操を防ぐように命じます。
張飛は川をたてにして布陣し、橋を切り落とさせます。
そして目をいからせて矛を小脇にかかえ、曹操軍に向かって、大声で呼ばわりました。
「我こそが張益徳である! さあ、かかってくるがよい。死を賭して戦おうぞ!」
曹操軍の中に、張飛に立ち向かおうとする者は誰もおらず、追撃はここで食い止められました。
このおかげで、劉備は無事に逃げのびることができたのでした。
たった二十騎で曹操の追撃を防いだ張飛の武威は、おおいに称賛を受けることになります。
征虜将軍・宜都太守になる
劉備は江夏に逃れると、呉の孫権と同盟を結び、赤壁で曹操を撃退しました。
そして荊州南部を占拠し、根拠地を確保します。
すると劉備は、これまでに功績のあった者たちの地位を高め、張飛を征虜将軍に任命し、宜都の太守としました。
また、新亭候という爵位も与えています。
こうして張飛は都市の統治も担当するようになりましたが、ここでは特に問題は起こしていません。
この頃になると張飛も年齢を重ねて成熟し、粗暴で強いだけの男ではなくなっていたようです。
益州に向かう
劉備は荊州南部を支配下に置くと、益州の劉璋に招かれ、そちらに向かいました。
そして212年になると、劉璋から益州を奪取すべく、戦いを始めます。
劉備は当初、荊州で得た黄忠や魏延ら、新参の武将たちを率い、龐統を軍師として戦いました。
しかし龐統が雒城で戦死し、戦況が膠着するようになります。
このために劉備は張飛と趙雲、そして諸葛亮を益州に呼び寄せ、各地の攻略を命じました。
荊州には、関羽ひとりが残ることになります。
厳顔を捕らえる
張飛は江州の攻略を担当し、巴郡太守の厳顔と対戦しました。
張飛は彼を打ち破って捕虜にすると、次のようにどなりつけます。
「大軍がやってきたのに、どうしてさっさと降伏せず、むだな抗戦をした!」
すると厳顔は「あなた方は無礼にも、わが州を侵略した。わが州には首をはねられる将軍はいても、降伏する将軍はいないのだ」と堂々と答えます。
張飛は腹を立て、側近の者に命じ、首をはねさせようとしました。
厳顔は顔色ひとつ変えず、「首を斬るのなら、さっさと斬るがよい。どうして腹を立てる必要がある」と冷静に述べます。
すると張飛は、厳顔は見事な男だと感じ入って縄をとき、賓客としてもてなしました。
こうして張飛は、義心を理解できるところを示したのでした。
益州を平定し、恩賞が与えられる
張飛はその後、各地で連戦連勝を飾り、劉備の益州攻略に多大な貢献をします。
そして劉璋が降伏して戦いが終わると、劉備は諸葛亮と法正、関羽と張飛の四人を勲功第一とし、金五百斤、銀千斤、銭五千万両、錦千匹という、多大な報償を与えました。
そして張飛は巴西太守となり、益州北部の防衛を担当します。
これは漢中を支配する曹操軍と境界を接する、重要な役目でした。
張郃を撃破する
曹操は漢中に夏侯淵と張郃を駐屯させ、漢川を守備させています。
張郃は部隊を指揮して巴西に侵入し、そこの住民を漢中に移住させようと計画しました。
そして軍勢を進めてきたので、張飛はこれを迎撃し、五十日にわたって対峙します。
やがて張郃が狭い道を行軍していることを知ると、張飛は急行し、攻撃をしかけました。
すると張郃は隘路に阻まれて軍勢を展開できず、先頭にいる一部の部隊しか戦わせられなかったので、張飛に大敗し、撤退せざるを得なくなります。
張郃はわずか十名の配下とともに、間道をつたって逃げ出し、漢中に戻りました。
こうして張飛は巴郡の防衛に成功し、曹操軍につけいる隙を与えませんでした。
この頃の張飛には、優れた戦術眼が具わっていたことがわかりますが、経験を積み重る一方で、それを習得するための努力もしていたのでしょう。
【次のページに続く▼】