張飛 劉備に仕え、関羽に兄事した猛将の生涯

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右将軍になる

やがて劉備は法正を軍師として、漢中に進出します。

そして黄忠の活躍によって夏侯淵を討ち取り、漢中を占拠することに成功しました。

また、討伐にやってきた曹操の撃退にも成功し、漢中の支配権を確立します。

こうして威望を高めた劉備は漢中王の地位につき、曹操に対抗しうる立場を手に入れました。

すると劉備は武官たちの官位を進め、張飛を将軍に任命しています。

これは関羽・馬超・黄忠らと並ぶ、劉備軍の最高位でした。

こうして張飛は劉備の出世に合わせて、その地位を高めていきます。

関羽が敗れる

219年になると、荊州の劉備領を統治していた関羽が北上を始め、曹操の領地を脅かします。

しかし司馬懿しばいと孫権の策によって挟み撃ちにされ、返り討ちにあってしまいました。

こうして旗揚げ以来の劉備・関羽・張飛の三者の絆は、関羽の死によって終わりを告げることになります。

劉備も張飛もこれに憤り、やがて呉への復讐戦が行われることになりました。

車騎将軍・司隷校尉となる

221年になると、張飛は車騎将軍・司隷校尉しれいこういに昇進しました。

さらに西郷候という爵位も与えられています。

司隷校尉は都を統治する官職で、張飛の権限は劉備軍の中でも、非常に重いものとなりました。

関羽亡きあとの劉備軍では、張飛がその名声・実力からして、頂点に立っていたのだと言えるでしょう。

劉備は張飛に対し、「君の忠義と勇気は召虎しょうこ(周の宣王に仕えた武将)に等しく、その名は遠近に鳴り響いている。

それを思うがゆえ、特に命じて爵位を昇進させ、都を司る役目を兼任させたのである。

大いに天威を用い、徳義をもって服従する者を慰撫し、刑罰をもって反抗する者を制裁し、朕の意志に沿え」と辞令を下しています。

部下に殺害され、呉の討伐に参加できず

劉備は関羽の仇を討ち、荊州の拠点を奪還するため、荊州遠征を決行します。

張飛はこの際に一万の兵を率い、江州で劉備と合流することになっていました。

しかしその出発の直前に、張飛は部下の張達ちょうたつ范彊はんきょうに、殺害されてしまいます。

張飛は武将としては成長していたものの、部下に厳しくあたるところだけは改めず、劉備にいつも戒められていました。

しかしそれに耳を貸さなかったことから、ついに非業の死を遂げることになったのです。

張飛を失い、劉備は大敗する

この事態を受け、張飛の側近が劉備に上表し、報告を送りました。

すると劉備はその内容を聞く前に「ああ、張飛が死んだ」と言って嘆いた、という逸話があります。

劉備はいつか張飛が部下に殺され、その報告を受け取ることになるのかもしれないと、予期していたのでしょう。

劉備は張飛抜きで荊州に攻めこみますが、陸遜りくそんに大敗して撤退します。

そして失意の中で病死し、後事を諸葛亮に託しました。

こうして劉備・関羽・張飛の三名は、220年前後に、あいついで亡くなってしまったのでした。

張飛評

三国志の著者・陳寿ちんじゅは関羽と張飛を並べて、次のように評しています。

「関羽・張飛はいずれも一万人の敵を相手にできる男だと称賛され、この時代を代表する勇猛な武将だった。

関羽は曹操に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を解放し、ともに国士の風格を備えていた。

しかし関羽は剛情で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、その欠点のために身の破滅を招いたのは、道理からいって当然である」

関羽は張飛とは異なり、部下の面倒見がよく、恩徳をもって広い土地を治める能力をもっていました。

しかし自分に自信を持ちすぎるあまり、同格の武将たちを軽んじることが多く、これによって嫌悪され、裏切られて滅んでいます。

一方で張飛は、目上や同格の武将たちとはうまくやっていましたが、部下には厳しく当たり、暴力もふるっていましたので、恨まれて殺害されてしまいました。

いずれも傑出した武力の持ち主でしたが、その性格上の欠点は修正することができず、不幸な終わりを遂げています。

歴史上の人物を見ていると、性格は誰しも容易に変えられるものではなく、それによって人は、定められた生き死にの運命をたどるのではないかと、考えさせられます。

張飛の子孫

張飛の長男・張ほうは若死にしたため、次男の張しょうが後を継ぎました。

官位は侍中じちゅう尚書僕射しょうしょぼくやとなり、皇帝の側近として、蜀の要職についています。

また、張苞の子の張じゅんは尚書となり、蜀滅亡の際には、緜竹めんちく鄧艾とうがいと戦って戦死しました。

その他には、娘が蜀の二代皇帝・劉禅の妃となり、後に敬哀皇后となっています。

237年にこの娘が逝去すると、妹が宮中に入り、翌年には張皇后になりました。

このようにして、張飛の子どもたちは建国の功臣の一族として、蜀から厚遇を受けたのでした。

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