張郃は袁紹や曹操に仕えて活躍した将軍です。
黄巾の乱の頃から戦い始め、諸葛亮の北伐の時代まで各地で活躍し続けました。
張遼や徐晃と並び称されており、魏における最も優れた将軍の一人に数えられています。
最後は上司となった司馬懿と意見が合わず、それが原因で戦死することになってしまいました。
この文章では、そんな張郃について書いています。
河間に生まれる
張郃は字を儁乂といい、河間郡鄚県の出身でした。
後漢の末期に黄巾賊の討伐軍に応募し、軍司馬(指揮官)に任命され、韓馥に所属します。
韓馥は冀州牧(長官)の地位を得ていましたが、気が弱かったので乱世の中で地位を保つことができず、やがて袁紹に譲っています。
このために張郃は、率いていた兵士たちとともに袁紹に帰属しました。
公孫瓚の撃破に貢献する
袁紹は張郃を校尉に任命し、公孫瓚との戦いに起用します。
公孫瓚は幽州に勢力を築き、隣接する冀州を支配する袁紹と、激しく争っていました。
やがて袁紹は公孫瓚を撃破しますが、この戦いでの張郃の功績は大きなものでした。
このため、寧國中郎將に昇進します。
官渡の戦いで袁紹の元を去る
その後、張郃は袁紹と曹操の決戦となった、官渡の戦いにも参加しています。
これ以前に、張郃は「公(袁紹)は連勝しておられますが、曹操とは戦わないほうがよいでしょう。密かに軽騎兵を南に派遣して交通を絶たせれば、敵は自ずから敗れます」と進言していました。
しかし袁紹はこれを聞き入れず、自ら大軍を率いて曹操に決戦を挑みます。
袁紹は曹操が立てこもる官渡城を攻撃しますが、なかなか攻め落とすことができず、戦況が膠着しました。
すると袁紹陣営から裏切り者が出て、袁紹軍の食糧が烏巣に蓄えられている、という情報を曹操に伝えます。
これを知った曹操は、自ら五千の兵を率いて烏巣を襲撃しました。
張郃はこの時、「曹操は精兵を率いていますので、淳于瓊(烏巣の守将)は必ず打ち破られます。淳于瓊が敗れれば、戦いは終わってしまいます。なので急ぎ兵を引き連れ、救援するべきです」と主張します。
これに、重臣である郭図が反対意見を述べました。
「張郃の計略は間違っています。曹操の本営を攻撃するべきです。そうすれば事の勢いからして、曹操は必ず撤退するでしょう。救援せずとも事態は解決します」
張郃は「曹操の陣営は堅固ですので、攻撃しても陥落させることはできません。もし淳于瓊らが捕縛されでもしたら、我々もことごとく捕らえられてしまいますぞ」と重ねて述べます。
このように意見が割れた結果、袁紹は中途半端な選択をしてしまいます。
袁紹は軽騎兵を烏巣の救援に差し向け、一方で重装兵を曹操の陣営に差し向け、戦力を二分しました。
しかし張郃が予測した通り、曹操の本営を攻略できず、淳于瓊も打ち破られるという最悪の結果になり、袁紹軍は壊滅します。
郭図はこれを恥じ入りましたが、一方で張郃のことを中傷しました。
「張郃は軍が敗北したことを喜んでおり、不遜な発言をしています」
張郃はこれを恐れ、袁紹陣営から離脱し、曹操に帰順します。
曹操に歓迎される
曹操は張郃を得たことを喜び、「その昔、伍子胥は早く悟らなかったので、自らの身を危機に陥れた。微氏が殷を去り、韓信が漢に帰属したようなものだろう」と述べました。
伍子胥は仕えていた王と不仲になったにも関わらず、国を去らなかったので処刑されてしまった人物です。
一方、微子は殷の国王である弟と対立した際に、殷を去って難を逃れた人物です。
そして殷の滅亡後、新しく立った周王朝から要請を受け、殷の遺民を引き連れて宋を建国しました。
また、韓信ははじめ項羽に仕えていましたが、志を得られなかったので、劉邦に仕えた将軍でした。
つまり曹操は張郃がその身に危険をもたらす主君から離れ、繁栄をもたらす相手に仕えたのだと述べたのでした。
曹操は張郃を偏将軍に任命し、都亭候の爵位を与え、厚遇します。
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