張郃 馬謖を打ち負かすなど、各地の戦いで活躍した魏の名将

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魏が建国され、地位が高まる

220年に曹操が亡くなると、曹丕が魏王に即位しました。

すると張郃は左将軍に昇進し、爵位が都郷候に進みます。

そして曹丕が献帝に禅譲を迫って皇帝に即位すると、ばく侯に封じられました。

詔勅によって、張郃と曹真は安定郡の盧水胡ろすいこや、東羌とうきょうといった異民族たちを征討します。

それから両者は宮殿に召喚され、南に向かい、夏侯しょうとともに荊州の江陵を攻撃するようにと命じられました。

張郃は諸軍を率いて別働隊となり、長江を渡って中洲にある砦を奪取します。

その後、227年に曹丕が亡くなって曹えいが即位すると、再び南方に派遣され、荊州に駐屯しました。

そして司馬懿とともに孫権の別将である劉阿りゅうあを攻撃し、祁口きこうに追撃をかけ、これを撃破します。

このようにして、張郃は引き続き各地の戦いに参加し、戦功を立て続けました。

諸葛亮の攻撃に対応し、馬謖を撃退する

228年に諸葛亮が北伐を開始し、祁山きざんに進出してくると、張郃は特進(高官)の位を加えられます。

そして諸軍を率いて街亭に向かい、諸葛亮が先鋒として派遣した馬謖ばしょくを防ぎました。

馬謖は南山の険阻に立てこもり、下に降りて城塞を頼ろうとしませんでした。

これをみた張郃は水を汲み上げる道を封鎖し、馬謖軍を苦しめます。

それから攻撃を加え、おおいに撃破しました。

この時、南安、天水、安定の諸軍は魏に逆らって諸葛亮に呼応していましたが、張郃はこれらをみな平定して取り戻します。

大きな功績を立てた張郃に対し「賊である諸葛亮が巴蜀の軍勢を率い、獅子や虎のごとき我が軍に攻めかかってきた。将軍は堅い防具を身に着け、鋭い武器を手に取り、向かってくる敵を平定した。朕はこれをはなはだしくよみする。千戸の食邑を加え、以前と合わせて四千三百戸とする」という詔勅が出されました。

こうして張郃の地位はますます高まっていきます。

荊州に向かう

その後、司馬懿は荊州の水軍を指揮し、べん水の流れに沿って長江に進み、呉を征伐しようと計画しました。

張郃は関中の諸軍を率い、この戦いに参加することになります。

そして荊州に到着しますが、冬の時期で水深が浅く、大きな船を運航することはできませんでした。

このため張郃は西方に帰還し、方城に駐屯します。

再び諸葛亮が進軍してくる

このころ、諸葛亮が再び魏に侵攻し、今度は陳倉を急襲してきました。

すると曹叡は駅馬を用い、張郃を都に召し寄せます。

曹叡は自ら河南かなん城に行幸し、酒宴を開いて張郃を送り出しました。

この時、南北の三万の兵と、武衛や虎賁こほんといった近衛兵を分けて張郃を守らせることにします。

このことから、張郃は曹叡から高く評価されていたことがうかがえます。

この時、曹叡は張郃に問いました。

「将軍の到着が遅れると、陳倉は諸葛亮に攻め落とされてしまうのではないだろうか」

張郃は諸葛亮の軍勢には穀物が不足しており、長く攻め続けられないと知っていました。

このため「臣がまだ到着しないうちに、諸葛亮は撤退しているでしょう。指を折って諸葛亮の食糧を計算してみますと、十日分もないでしょう」と張郃は答えます。

張郃はそれから夜を徹して進軍し、南鄭なんていに至ったころに諸葛亮は撤退しました。

張郃は都に戻ると、征西車騎將軍に任命されます。

張郃の評価

張郃は変化への対応を得意とし、陣営の処置を的確に行うことができ、戦いの勢いや地形を考慮し、計略を誤ることがありませんでした。

このため、諸葛亮をはじめとして、蜀軍の者たちはみな張郃をはばかりました。

張郃は武将でしたが、儒教の学士を大事にし、同郷の卑湛ひたんを経明行修(経典に明るく、品行が修まっていること)に推薦します。

「その昔、祭遵さいじゅんは将軍になると、五経大夫(博士の制度)を置くことを上奏した。そして軍中にあっても学生たちと歌や投壺とうこを楽しんだ。
いま将軍は、外は征旅にありながら、内では朝廷のことを思っている。
朕は将軍の意を嘉するものである。
よっていま卑湛を抜擢して博士とする」という詔がくだされています。

このように、張郃は武に秀でているだけでなく、文にも理解があったのでした。

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