張遼は呂布や曹操に仕えた将軍です。
武勇によって取り立てられ、各地の賊の討伐で活躍しました。
合肥が孫権の率いる十万の大軍に攻められた際には、わずか八百人の兵で果敢に立ち向かい、思う存分にけちらして、孫権軍の士気をくじいています。
その後も呉への抑えとして用いられ、曹丕から大変な厚遇を受けました。
この文章では、そんな張遼の生涯を書いています。
【張遼の肖像画】
并州に生まれる
張遼は字を文遠といい、并州の雁門郡、馬邑県の出身です。
生年は165年か、169年だと言われています。
先祖は聶壱という富豪でしたが、彼は紀元前133年に、前漢の武帝の密命によって、匈奴という異民族をだまし討ちにしようとしたことがありました。
しかしこれを匈奴の単于(王)に察知され、失敗します。
この結果、聶壱は匈奴に恨まれるようになったので、姓を「張」に変えた、という逸話がありました。
丁原に見いだされ、何進に仕える
張遼は若い頃、郡の官吏をしていました。
武力が人並み外れて優れていたため、やがて并州刺史(長官)の丁原に見いだされ、その従事(幕僚)となります。
そして丁原の命によって、兵を引きつれて都におもむき、大将軍・何進に仕えるようになりました。
このような経緯で、張遼は北方の辺境から、中央の情勢に関わるようになります。
何進が暗殺される
この頃、朝廷では宦官と役人たちの抗争が激化しており、何進は宦官を排除しようとする勢力の頂点に立っていました。
何進は宦官たちを圧迫するため、兵を都の周辺に集めようとします。
こうした動きの中で、張遼は河北におもむき、募兵する役目を任されました。
張遼は首尾よく千人の兵を集めて帰還したのですが、その時には何進が宮中で暗殺されてしまっていました。
丁原も殺害され、董卓に仕える
その後、都の周辺では、何進に召喚されて并州から登ってきた丁原と、涼州から登ってきた董卓が、それぞれに軍勢を展開するようになります。
やがて董卓は丁原を排除するため、彼の部下である呂布を勧誘しました。
そして呂布に丁原を殺害させ、その軍勢を吸収します。
この結果、都の周辺では董卓だけが軍勢を保有する状況となり、それを活かして朝廷を乗っ取ってしまいました。
こうして丁原と何進、二人の上司を失った張遼は、ひとまず董卓に仕えることにしました。
元の上司を殺害した相手に仕えたわけですが、他に行き場もなく、状況からするとやむを得ない選択だったと言えるでしょう。
張遼は強いものの、混乱に乗じて自分の勢力を旗揚げしようとするような、独立心が強い人物ではなかったのでした。
呂布に仕える
やがて董卓は、東方から袁紹や曹操らの連合軍に圧迫されるようになり、洛陽から長安に都を移しました。
しかしそこでも暴政を行ったので、朝廷の人々からの反発が高まり、ついに呂布の手によって殺害されます。
呂布は、元は丁原の主簿(副官)であり、張遼とは同僚の間柄でした。
呂布はその丁原と董卓と、次々に主を殺害しましたが、張遼は彼の配下となり、騎都尉(騎兵隊長)に昇進しています。
やがて呂布が董卓の元部下である李確に打ち破られ、長安から逃亡すると、張遼はそれに従い、ともに徐州まで流れて行くことになりました。
曹操に仕える
呂布が劉備から徐州を奪うと、張遼は重用され、魯国の相(統治者)や北地の太守に任命されています。
呂布は并州出身者や、血縁者を重用する傾向にありましたので、その影響があったのでしょう。
この頃には、劉備の部下が呂布の馬を奪い取る事件が起き、このために張遼は劉備の拠点である小沛を攻撃した、という記録があります。
そして劉備を敗走させ、徐州を完全に呂布のものとしました。
しかし呂布は、やがて討伐にやってきた曹操に敗れて処刑され、張遼はまたしても主君を失ってしまいました。
行き場がなくなった張遼が曹操に降伏すると、中郎将に取り立てられ、関内候の爵位も与えられます。
これは張遼の武勇が高く評価されてのことでした。
こうして張遼は、丁原、何進、董卓、呂布、曹操と、次々と上司や主君が変わっているのですが、戦乱の時代と言え、これほどまでに変転の激しい人間は、なかなか珍しいと言えます。
張遼が不実な人間だったからそうなったわけではなく、それほど権力の移り変わりが激しい時期だったからだと見た方が、正しいでしょう。
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