張遼 呂布や曹操に仕え、合肥の戦いで活躍した猛将の生涯

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孫権を追撃する

張遼の働きによって合肥の将兵の士気が上がり、彼らは落ち着いて守備に励みます。

それとは逆に、すっかり意気消沈した孫権軍は、大軍の威力を発揮できず、十数日包囲した後で、虚しく撤退にとりかかりました。

諸軍が先に引きあげてゆき、後には孫権と近衛兵、そして数人の将軍たちだけが残った状態になります。

張遼はその状況を見て取ると、諸将を率いて孫権に猛攻をしかけました。

これに対し、孫権配下の甘寧や淩統らが奮戦し、張遼の攻撃を必死になって防いだので、孫権はかろうじて逃げのびることができました。

しかしこの一戦によって、呉軍には張遼の脅威がすっかりと刻み込まれ、以後はなかなか攻勢に出ることができなくなります。

遼来遼来

この戦いの後、呉では子供が泣いていると、「遼来りょうらい遼来(張遼が来るぞ)」と言えば、必ず泣き止んだ、という逸話が生まれています。

それほどに張遼は、呉の地で恐れられる存在となったのでした。

ところで、古代ローマは一時、ハンニバルというカルタゴの将軍に大苦戦をしたのですが、それ以後は泣いている子供に「戸口にハンニバルが来ていますよ」と言うと、泣き止んだ、という話があります。

洋の東西を問わず、強い将軍は子供を泣き止ませるために、名前を用いられたようです。

征東将軍に昇進する

曹操は張遼の活躍を知ると、たいそう感心し、征東将軍に昇進させました。

これは揚州などを担当する、方面司令官になったことを意味します。

翌年に曹操は再び孫権を討伐したのですが、合肥に到着すると、張遼が戦った場所をめぐり歩き、長い間、感嘆していました。

そして張遼の兵を増員し、夏侯惇らとともに居巣きょそうに駐屯させています。

関羽とは再会せず

219年になると、荊州南部を治める関羽が北上を始め、はん城を守る曹仁を包囲しました。

曹操は于禁を救援に向かわせますが、関羽に捕虜にされてしまい、樊城は重大な危機に陥ります。

この頃には、孫権が曹操に降伏し、一時的に従っていましたので、張遼は揚州を離れ、荊州へと援軍に向かうことになりました。

こうして19年ぶりに、関羽と戦場で再会するかと思われたのですが、張遼が到着しないうちに、関羽は孫権に足下を崩され、徐晃じょこうに攻め立てられたので、撤退しています。

そして関羽は孫権軍に捕縛され、処刑されてしまったため、張遼と関羽が再会することはありませんでした。

曹丕から厚遇される

やがて220年に曹操が死去すると、曹丕が魏王の地位を継承します。

曹丕は張遼を厚遇し、前将軍に昇進させ、きぬ千疋とこく一万石を授けました。

さらに領地を分け、兄の張はんと一子が列侯に取り立てられます。

そして孫権が再び反逆すると、張遼を合肥に駐屯させて備えとし、都郷ときょう候に昇進させました。

このようにして、張遼は魏軍の重鎮としての地位を確立していきます。

母も厚遇を受ける

曹丕は相当に張遼を気に入っていたようで、張遼の母に車を支給し、兵馬をつけて駐屯地まで護衛をさせました。

そして到着する時には、駐屯先の先導役に出迎えるように命じています。

張遼の指揮下にあった諸軍の将校はみな、道の両側に並んで母に挨拶をしました。

見物していた者たちは、これは大変に名誉なことだと称えました。

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